王であるキリスト-ボロは着てても心は錦
作成者 admin
—
最終変更日時
2006年03月29日 14時33分
ルカによる福音23.35-43
(その時議員達はイエスを)あざ笑っていった。
「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
兵士達もイエスに近寄り、酸い葡萄酒を突きつけながら侮辱していった。
「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
(略)
イエスさまの誕生をお祝いするクリスマスを一ヶ月前にして、
私たちは、イエスさまのむごい最後を思い起こします。
そして、来週から待降節。
一方、町中(まちなか)では年末商戦に突入。
不況布教(たまたまこうなった)と言いながら忘年会、新年会の大広告。
ザワザワと世の流れの中で気ぜわしさが増していく。
アフガンの人々の苦境を思いながら、せめて贅沢を押さえて
連帯の意思表示をする人は多いと思うが。
それでも、せっせと自分の楽しみを求めている日々ではないか。
ことに、キリスト者にとって、この年末をどう過ごそうとしているか
十字架にかかった王キリストが問いかける。
「ワシと一緒に貧しく生きて欲しい。」
貧しく?これ以上貧しく?
不正義な裁きに服し、犯罪人らと十字架の刑を甘受するイエス。
怒らず、争わず、人を恨まず
ただ神の真実に身を委ねて、我が身への不正義を赦したイエス。
そこにイエスの貧しさがある。
人間の力と欲望が勝り、常識に支配される時、人間関係だけでなく
キリスト者としての生き方そのものがぎくしゃくする。
そんな自分に気がついて、十字架のイエスのもとに帰るなら
その時イエスはあなたの王となる。そして、貧しさの道を教えてくれる。
錦で飾り立てても心がボロでは悲しいから。