現在の場所: ホーム Binder 日曜日のはなし 2001年 「何も気がつかなかった」のだが…
ナビゲーション
最近のエントリ
ペトロパウロ休日 2014年06月29日
有難うシスターたち 2014年06月27日
大分教区司祭研修会 2014年06月26日
32年ぶり班制度 2014年06月24日
梅雨の晴れ間に 2014年06月19日
 
編集操作

「何も気がつかなかった」のだが…

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 14時34分

今週の聖書

マタイによる福音24.37-44

「人の子が来るのは、ノアの時と同じである。
洪水になる前は、ノアが箱船に入るその日まで、
人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
そして、洪水が襲ってきて一人残らずさらうまで、
何も気がつかなかった。
人の子が来る場合もこのようである。
そのとき、畑に二人の男がいれば、
一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
二人の女が臼を引いていれば、
一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰ってこられるのか
あなた方には分からないからである。
このことをわきまえていなさい。
家の主人は、泥棒が夜のいつ頃やってくるかを知っていたら
目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
だから、あなた方も用意していなさい。
人の子は思いがけない時に来るからである。

今週のポイント人は、と言うか自分の場合は、何事につけ、怠け半分という気がする。

高校時代、各学期の試験の期日も範囲も分かっているのに、
直前になっていつもあわて、そしていつも後悔したものだ。
この年になっても、「もう少し…」と先に延ばすことを止めない。
そして、不測の事態に備えるという思慮深さにも欠けるように思う。
しかし、庭先に石ころが転がっていたりすると、
子供達がけがをしないかと不安になり拾うことをいとわない。
園舎の入り口付近が散らかっていると
「いつもきれいにして置いて欲しい」と先生達に指示したりもする。

若い頃よりも、確かに、いろいろと気がつくようになったことは確かだ。
年と共に、あるいは立場上そのようになったとも言えよう。
だが、指摘されるまで気がつかないことはまだまだあるはずだ。
いや、指摘されても実感できないことも多い。

そんな自分を振り返りながら、今日の福音を読むと…。
やはり、実感にはほど遠い。イエスさまの脅しは全く効かない。
「どんなことにしろ、気がつくまでには時間がかかる。」
これまでに学習した信念みたいなものがあるからに違いない。
「気がつかなかった、では済まされない」と叱られたこともあったが、
そのことで自分の人生が取り返しのつかないことになったということもなかった。
後悔を繰り返しながら、学習を積み重ねてきたように思う。
気がつくまで、周りの人々が我慢してくれた結果だと言えよう。

で、突然だが、
怠け半分の人生を生き続けている自分を
神は我慢強い父親として根気強く導いてこられたと思っている。
そして、これからも、自分との旅を止めることはないと信じている。
で、
今日の脅しの説教をどう受け取るかは
あなたとイエスとの友情の問題になるし、
神があなたにどのように計らってこられたかの認識の度合いの問題となる。

いずれにしろ、「気がつくこと」を待ち続けているのはイエス自身なのだ。


Powered by Plone CMS, the Open Source Content Management System

このサイトは次の標準に準拠しています: