目標に立ち戻れ
作成者 admin
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最終変更日時
2006年03月29日 14時36分
イザヤの預言11.1-10
その日、エッサイの株から一つの芽が萌えいで
その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。
(略)
彼は、正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる。
オオカミは子羊と共に宿り、豹は子ヤギと共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、
獅子も牛も等しく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子はまむしの巣に手を入れる。
(略)
祭壇奉仕隊の隊長ジョナサンは四年生。
学校の行事があろうとサッカーの試合があろうと日曜日のミサを欠かさない。
彼の今年の冬の目標は「半袖でで過ごす」だ。
風邪を引いてミサを休むことにならないように祈るしかない。
隊長のお父さんはデジカメ入手が冬の予定らしい。
パソコンに挑戦という人もいるに違いない。
いろいろな目標があるとは思うが、個人的な目標はどこか微笑ましい。
いずれにしろ、目標は、私たちの生活、お金の使い方を制約する。
目標が深刻であれあるほどこの制約も厳しさを増す。
受験、スポーツの記録挑戦など身近で分かりやすい。
どころで、信者にも目標がある。
各自が決めた目標ではなく、神が決めたものだ。
今日のイザヤ書がそれを示している。
「オオカミと子羊」を始め、述べられているのは相対立するものばかりだ。
「そうしたものが相和(あいわ)して共存共栄を実現する。」
そんな壮大な目標を掲げた神を私たちは信じている。
しかし、神を信じるのが、この目標を信じるのと同じことに気づかない。
自分なりの理屈や都合で書き換えてしまうことは多い。
自分の趣味に合わないので評価しない。
社会的偏見で人を評価する。
学歴や人の評価が気になり過ぎる。
外見で人を判断する。
自分の立場や地位を気にしすぎる。
自分の都合を優先する。などなど。
こうした現実は多少なりとも誰にでもあることだが、
良く眺めてみると、こうした態度は、
あの遠大な神の目標に方向付けられているとは思えない。
「悔い改めよ。」
洗礼者ヨハネが、荒れ野で叫んだ。
一体何を悔い、何を改めるのか。
完全無欠を目指すことが信仰だと思ったら間違う。
イザヤが打ち出したあの神の目標を私の目標とすること。
この大きな奔流に何とか乗ろうとすること。
目の前に、腹を立てる要因に事欠かないとしても
偏見で人を裁いたとしても
わがままで人に迷惑かけたとしても
誰かのせいでひどい損失を被ったとしても
この奔流に立ち戻ろうとする。それが悔い改め。
自分の心の持ち方、態度、ものの見方に聖域を設けることなく
改革を断行しようとする決意のほどが問われている。