連鎖のエピファニー2002
マタイによる福音2.1-2
2002.1.7記
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。
その時、占星術の学者達が東の方からエルサレムに来て言った。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。
私たちは、東方でその方の星を見たので拝みに来たのです。」
これを聞いてヘロデ王は不安を抱いた。
(略)
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み
ついに幼子のいる場所の上に泊まった。
学者達はその星を見て喜びに溢れた。
家に入ってみると、幼子は、母マリアと共におられた。
彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、
黄金、乳香、没薬を贈り物として捧げた。
ところが、「ヘロデの所へ帰るな」と夢でお告げがあったので、
別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
エピファニー。つまり神顕現(けんげん)。つまり、神が現れること。つまり、主の公現。
具体的には、ユダヤ人以外の民を代表すると見られる東方の学者達に、
幼子イエスが初めて紹介されたことをもって公現と呼ぶ。
何故かその東方はイスラムの国として栄え、キリスト教徒はいない。
皆無ではないかも知れないが…。
それはともかくとして、主の公現が一体我々にどんな意味があるのか。
あの出来事は、まさに神御自身の宣教活動だった。
話しは当然飛躍するが、実は、この神の出来事を祝うのが典礼。
現実には、その神の出来事が、人ごととして祝われるのも典礼。
むしろ、人ごとの場合が多いのではないか。
つまり、これまで祝ってきた一連の神の出来事、
お告げ、誕生、宣教活動、受難と死などなど。
これらは間違いなく一連のエピファニー、神顕現の出来事。
もっと具体的には、イエス御自身神を指し示すだけでなく、
「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハ14:9 )から、
イエスの存在そのものがエピファニー。
それから、聖体もエピファニー。ここまではまだ神の出来事。
ミサの時、祈りの時、聖書を読んだ時、散歩の時などなど
イエスを身近に感じたり、感動したり、説教の意味が分かった!り
したとしたら、それはあなたへのエピファニー。
もっと言えば、それは神と、あるいはイエスとあなたの出来事。
神は、イエスは、十全に自分を表しても
私はその幾分かしか受け取ってはいない。
だから、それほど強烈な出来事ではない。だが、立派なエピファニーだ。
たくさんのエピファニーがあなたの人生を揺るぎないものにする。
また、あなたの小さな親切が、好意が、援助などなど、
が誰かに喜んでもらったり、感謝されたりしたなら、
それはあなたとその人との出来事。それも小さなエピファニー。
何故なら、喜び、感謝、希望は皆神からのものだから。
連鎖のエピファニーが地球を結ぶ。
この発想こそ平和を願う新年にふさわしい。
で、主のあなたへの公現おめでとう。