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品は悪いが濡れ手で粟

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 15時08分

今週の聖書

マタイによる福音3,13-17

2002.1.12記

イエスがガリラヤからヨルダン川のヨハネの所へ来られた。
彼から洗礼を受けるためである。
ところがヨハネはそれを思いとどまらせようとしていった。
「私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、
あなたが私の所に来られたのですか。」
しかしイエスはお答えになった。
「今は止めないで欲しい。正しいことを全て行うのは
我々にふさわしいことです。」
そこでヨハネはイエスの言われる通りにした。
イエスは洗礼を受けると、すぐ水の上からあがられた。
その時、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が
鳩のように自分の上に降ってくるのをご覧になった。
そのとき、「これは私の愛する子、私の心に適うもの」という声が天から聞こえた。

今週のポイント濡れ手で粟(あわ)(「濡手で粟のぶったくり」とも。濡れた手で粟をつかめば、粟粒がそのままついてくるところから)骨を折らないで利益を得ること。労少なくて得るところの多いこと。
1988/国語大辞典(新装版)小学館 1988

あまり品のいい表現ではないが…。
しかも、主の洗礼と直接関係があるわけでもないのだが…。

洗礼で思い出すのは、種子島にいた頃、毎年何人かの人が洗礼を受けた。
しかし、誰一人として、自分の働きによるものではなかった。
もちろん勉強のためには働いたが、自分が見つけた人々ではなかった。
誰かの紹介だったり、クリスマスに来た家族だったり、
シスター達の保育園で働いていた人だったり。
つまり、人々を呼び集めたのは、他でもない神ご自身で、
自分は美味しいところだけ手にしたというわけ。

昨年四月、名古屋から、加藤さん一家が転入した。
ご主人は、フィリッピン人の奥さんと二人の子供を車に乗せてよくミサに来た。
聖体拝領にもみんなで並び、みんなが手を出した。
みんなとも顔見知りになり、親しく話すようになった頃、誰かが、
「ご主人はいつ頃洗礼をお受けになったんですか」と何気なく聞いた。
「まだ受けていません。」本人がすまし顔で答えた。
思わず、みんなが、「え~っ!」と叫んだ。
結局
ミサ後の勉強会が始まり聖母の被昇天のミサで洗礼を受けた。
そして、以前にもまして熱心になり、共同祈願も率先してするようになった。
今回も、労せずして大物を釣ったことになる。
洗礼が恵みであるといわれるゆえんだ。

恵みといえば、全く予期しなかったここ志布志への突然の転勤。
初めて聞いた時は、「一体何でワシが!」と思ったものの
時がたつほどに、予期しないいいことずくめで、
これを恵みと言わずして何と言おう。
これも、労せずして得たものなので、まさに濡れ手で粟が文字通り当てはまる。

ところで、洗礼を受けて信者になるというのは、
ここにもあそこにも、
恵みが無造作に転がっているのに気づくようになることだと言っていい。
そして、濡れ手で粟をすくい取るが如く
いとも易々とそれらを手にできる発見を繰り返し体験すること。
粉骨砕身、頑張りに頑張って手に入れる事を恵みとは決して言わない
ワケを理解するのは易しい。
だが、「努力もしないで手に入れる」生き方を人は赦したがらない。。
しかし、恵みを手にするためのキーワードは「労せず」なのだ。
で、洗礼を受けるというのは、力の抜き方を学ぶこと。
で、洗礼を受けても頑張る人は「未」だ、「信者」ではない。


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