世の罪とはどんな罪?
ヨハネによる福音1,29-34
2002.1.19記
ヨハネは自分の方へイエスが来られるのを見て言った。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『私の後から一人の人が来られる。
その方は私に勝る。私よりも先におられたからである』
と私が言ったのはこの方のことである。
私はこの方を知らなかった。しかし、この方が
イスラエルに現れるために、私は、水で洗礼を授けに来た。」
(略)
罪なくして配所(はいしょ)の月を見る (「古事談‐一」などによると、源中納言顕基(あきもと)のことばといわれる)罪のない身で閑寂な片田舎へ行き、そこの月をながめる。すなわち、俗世をはなれて風雅な思いをすること。
Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)小学館 1988
電子辞書からそのままコピーした引用。
「罪のない身で…」すなわち、「俗世を離れて…」という解釈が興味深い。
この解釈によると、この言葉を残した人は、
俗世とは罪の世という理解をしていたことになる。
確かに、俗世間という言葉には、
煩わしく、人間の欲望が渦巻く世界といった響きがある。
そんな状況に留まることは罪に染まることになるということを
身にしみて感じていたに違いない。
今に限ったことではないと思うが、また日本に限ったことでもないと思うが、
何か、世の持つ力というか、抜け出すことの出来ない力に
人々が、絡め取られているのではないかと思われるほどに
詐欺や横領、凶悪な事件が多い。
そして、そんな罪を犯すのに、若い人若くない人の区別はない。
ところで、世の罪を取り除く神の小羊イエスは
果たして、そんな世の罪を取り除いてくれたのか?
ひと頃の人気映画ゴーストバスターの主人公達のように勇猛果敢に
「罪討伐」をやってのけたのか。
そうではなかった。
それどころか、イエスは世の勢力に無惨にも破れて、十字架で果てた。
世界最強の軍事力を誇るアメリカを見るまでもなく、
宗教は力にならず、
世の力はますますイエスを凌駕(りょうが)しているかに見える。
しかし、はっきり言えることが一つある。
私自身が世の一部であるという事実だ。
私は、世に絡め取られているどころか世の構成メンバーなのだ。
私の独りよがり、我が儘、貪欲、いい加減さ、怠け、人に厳しく自分には甘い。
そんな私の中の俗世性(?)は裁きの対象ではなく、神の愛の対象。
それを伝えたくてイエスが私に送られた。そして、そのイエスと出会った。
で、世の罪とは赦された私の罪のことなのだ。
私の罪の深さは相変わらずでも、もはやそれに振り回されることなく
ハツラツと生きていける。その保証がイエス。
つまり、イエスは、私の世の罪を殲滅(せんめつ)することなしに
無力にされた。事実上、「世の罪を取り除かれた!」
洗礼者ヨハネは、宗教ではなく、真の宗教家イエスを指し示した。
彼のもとにのみ真の平和がある、と。