悲しむ人は何故幸いか
作成者 admin
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最終変更日時
2006年03月29日 15時16分
マタイによる福音5,1-12
2002.2.2記
イエスは、群衆を見て山に登られた。
腰を下ろされると、弟子達が近くに寄ってきた。
そこで、イエスは口を開き、教えられた。
心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人達の者である。
悲しむ人々は幸いである。その人達は慰められる。
柔和な人々は幸いである。その人達は地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は幸いである。その人達は満たされる。
憐れみ深い人々は幸いである。その人達は憐れみを受ける。
心の清い人々は幸いである。その人達は神を見る。
平和を実現する人々は幸いである。その人達は神の子と呼ばれる。
思い煩う姿とは、
あれこれと考えて悩む。思案にくれる。心配。悩みの種。不安をかき立てる。
などなど。
何かの計画を立て、その実現のために日夜悪戦苦闘するのは、
思い煩いとは言わないだろう。
もっとも、失敗したら首が飛ぶという状態なら別かも知れない。
少なくとも、自分の世界ではそう言う体験はないので、
サイワイ、と言えるかも知れない。
最後の、「不安をかき立てる」ようなことに振り回されて
必要のないことをあれこれ心配すること。無用の心配。とりこし苦労。
これこそが、本物の思い煩い。
今日の聖書のテーマは幸い。
だから今、思い煩いについての講義をしようというのではないが、
名案も浮かばず、「幸い、幸い…」と思い悩んでいたら
『思い煩い』が思い浮かんだ次第。
もう少し言うと、問題がない状態が、必ずしも幸せなのではない。
第一、問題のない世界はない。思い煩いのないことこそ幸せ。
こんな風に考えると、
たとえ悲しい出来事に直面させられる人が必ずしも不幸なのではない。
小学校三年生の美智恵ちゃんが突然、脳腫瘍の診断を受けた。
家族は、驚きと悲しみのどん底に突き落とされた。
この幼い命が。一体神さまどうして!?
誰もが、やり場のない怒りと深い不安。
将来のことを思うと、様々な不安がよぎって涙が止まらない。
だが、信仰深い家族は、どこか落ち着いていた。
この試練をこの家族はきっと乗り越えてくれるに違いないと思いながら帰った。
取り乱して、慰める言葉もままならない時は
ボクの心にも暗雲がたれ込めて、やるせなくなる。
だからといって、美智恵ちゃんの家族に
悲しむ人々は幸い、という勇気はないのだが。
いずれにしろ、深い悲しみにもめげずに前進できるならホント幸いだ。
明日の日曜日は、ミサに行くとお母さんが言っていた。
「悲しむ人々は、幸いである。その人達は慰められる。」
神の計らいに戸惑いながらも、
明日、家族でしっかり受け取ってくれると思う。