一線を越える
使徒パウロのテモテへの手紙2テモテ1,8b-10
2002.2.21記
愛する者よ、神の力に支えられて、福音のために
わたしとともに苦しみを忍んで下さい。
神が私たちを救い、聖なる招きによって呼び出して下さったのは、私たちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。
この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいて私たちのために与えられ、今や私たちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。
キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅のいのちを表して下さいました。
キリスト信者が、「越えてはならない一線を越えてしまった」
と告白したとすれば、司祭でなくても、「何事ならん!」
とイロめき立つに違いない。
しかし、キリスト信者にとってのいつもの問題は、
「一線を越えられない」ことにこそあるのだ。
このことに関して、観察するところ、
信徒、司祭、司教を問わないというのがボクの結論だ。
自分も含まれていることは言を待たない。
この一線を越えてしまった人の元祖は、他でもないアブラハム。
「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて私が示す地に行きなさい。」
…
アブラムは主の言葉に従って旅立った。
(創世記12,1-4a)
実際にはどんな事情があったかは知らないが、
あの肥沃な、人類発祥の地ともされるチグリス・ユーフラテス河
のほとりから人住めぬ砂漠に旅立ったとは!
居ながらにして水を手に出来る故郷から、
オアシスからオアシスへと水を求めてさまよう苛酷な旅への決断。
実は、アブラハムが越えた一線こそ信仰の原点なのだ。
やがて祝う過ぎ越しの神秘がエジプト脱出を原点にしているとしても
アブラハムの脱出の遥か後の出来事なのだ。
しかし、いずれも約束された先に待っていたのは砂漠。
安住の地からの脱出。
布団から出るのがつらい毎日を思うなら、大げさに考えなくていい。
そんなささやかな戦いから始まって、
無用な意地の張り合い、強情、頑固、独りよがりなどなど。
人間関係を不毛なサバクに変える元凶だ。
だが、そのことを深刻に悩む信徒や司祭、司教は少ない。
その一線を越えさえすれば、素直にハイと言えるのにだ。
人間関係も潤い、明るくなり、希望が湧き、やる気も起こるしいいことずくめなのに
その一線が越えられないのダ。
それは今に始まったことではない。気合いだけでも出来ない。
だからパウロはいう。「神の力に支えられて…」
だが、「神の力」さえも当てにしていないところが深刻なのだ。
さらに、福音のためにと言いながら、そのために「呼び出した」神に
成り代わってしまうので絶望的だ。
そんな、人間的野心と素朴な弟子の心がない交ぜになっている
弟子達の目の前で、イエスは変身して見せた。
絶望を希望に変えたいイエスの苦心の業?
イエスの変容でさえもまさに神業だったことを思えば、
何でも有りでいいかなとも思ってしまう。
神に不可能という言葉はないのだから…。
なんだかんだ言いながら
これが自分が開いたサバクだと自嘲的になっても、
それも変容、約束の地、への過程なのだと信じられるところに
信仰の妙味がある。
と、あなたが言えたら、あなたはもう一線を越えている。