You see?
ヨハネによる福音9,1,6-9,13,16
2002.3.11記
イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
イエスは、地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
そして、「シロアム(遣わされた者)の池に行って洗いなさい」と言われた。
そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって帰ってきた。
近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、
「これは、座って物乞いしていた人ではないか」と言った。
「その人だ」という者もいれば、
「いや、違う。似ているだけだ」と言う者もいた。
本人は、「私がそうです」と言った。
…
人々は、前に盲人であった人とファリサイ派の人々のところへ連れて行った。
…
ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、
神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、
「どうして罪のある人間がこんなしるしを行うことが出来るだろうか」
と言う者もいた。
こうして、彼らの間で意見が分かれた。
You see?と聞けば、中学生でも分かる。
「分かる?」と言うのに、see、見る、を使うところがミソ。
見ているのに、聞いているのに分からないことは多い。
何度も話を聞いているのに本心を計りかねることもある。
話せば話すほどこじれてしまうことだってある。
目の見えない人の目が開いた。
見分けがつかないくらい顔つきが変わったのか人々は戸惑った。
「私がそうだ」と言っているにもかかわらず、
なぜか、その人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。
あーでもない、こうでもないと議論が始まった。
誰一人、目が開いたことを喜んではくれなかった。
「人は目に映ることを見るが、主は心によってみる。」(サムエル記上16,7)
「目に映ることを見」て、光を見た感動を共有できない心の暗さ。
その暗さの中に、イエスは、見えるようになった人を送り込んだのだが。
その人のまたの名は、「シロアム」(遣わされた者)。
誰もが、ヨク見てもらいたいと思う。
一面だけ見てもらったのでは不満が残る。しっかり見てもらいたいのだ。
そうしたら、本当のことが「分かる」からだ。
もっとも、一面だけの方が好都合なときもあるが…。
いずれにしろ、「見てもらうこと」「分かってくれること」を望むあまり
見る努力、分かる努力にまで力が及ばないところに心の暗さが拡がる。
そうして
誇り、こだわり、立場、めんつ、などなどによって強化された
You see?
が際限なく繰り返されることになる。
そして、あなたにもシロアムになってもらいたいイエスの期待は
今日も裏切られていく。You see?