イエスの叫び
ヨハネによる福音11,17-27,33-35
2002.3.16記
さて、イエスが行ってご覧になると、ラザロは墓に葬られてすでに四日もたっていた。マルタはイエスが来られたと聞いて、迎えにいったが、マリアは家の中にいた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神は叶えてくださると、私は今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「私は復活であり、いのちである。私を信じるものは死んでも生きる。生きていて私を信じるものは誰でも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じております。」
イエスは、心に憤りを覚え、興奮して言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ来てご覧ください」と言った。イエスは涙を流された。
…
マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くはイエスを信じた。
悲しみの涙?別れの涙?悔し涙?感動の涙?
まさか、うれし涙ではあるまい。
第一、「憤り」も分からない。
だが、
ルカの記述(10,38以降)と合わせ読むと、マルタには不信の陰がつきまとい
マリアには物静かな信仰深い雰囲気が漂う。
マルタに関して:
ルカ:「マルタ、マルタあなたは多くのことに思い悩み心を乱している。…」
ヨハネ:「私は復活でありいのちである。…このとを信じるか。」
マリアに関して:
ルカ:「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。」
ヨハネ:「…マリアは家に座っていた。…マリアのところに来て…
ユダヤ人の多くはイエスを信じた。」
イエスにとって、最大のストレスは「人々の不信仰」だった?
親しいマルタは相変わらず深まっていない。
「もし信じるなら…と言っておいたではないか!」(ヨハネ11,40)
思わず声を荒げてしまったのだ。
憤りといえば、政治家の権力乱用や官僚の公金横領に憤りを
覚えない人はいるまい。また、不況不況と言いながら、
人ごとのような落ち着き払った顔の政治家や専門家たちに
一種の腹立たしさもある。
世界第二の経済大国でありながら
弱い立場の人々がますます住みづらくなる傾向への苛立ちも強い。
目を聖地に転ずれば、相変わらずの「目には目」の報復に
血の雨が止むことはない。
北朝鮮の拉致疑惑に当事国は無視を決め込んでいる。
国内外のこうした負の現実に
「あ~っ!」破滅的叫びの一つも上げたくなるではないか。
ところで、イエスの活動は、弟子たちがいたとはいえ、
ある種、孤立無援。しかも、盤石のユダイズムに素手で立ち向かう
気力は、どうかすれば、不信という組織的力の前に
萎えてしまいそうになっても不思議ではない。
ラザロの墓場の前に立つイエスが上げた叫び(43節)は
まさに、墓場の暗さにも似た不信の闇に対する憤りと苛立ちの叫びではなかったのか。
それとも、自分を奮い立たせるための雄叫びだったのか。
いずれにしろ、今を生きるキリストもまた、
この変わり映えのしないぬるま湯のごとき私の現実はもちろん
司教、司祭、そして信徒に至るまで絡め取ってしまっている世の力の前に
同じ叫びを上げたくなっているに違いない。
ラザロにいのちを呼び戻した叫びを。
来週は主の受難。