十字架、不条理からの平和
使徒パウロのフィリピの教会への手紙2,6-11
2002.3.23記
イエス・キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で表れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものが全て、イエスの名にひざまずき、、全ての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
不条理。
物事のすじみちが立たないこと。道理に合わないこと。
そんな目に遭うと人は混乱し、怒り、苦悩する。
降って湧いたような災難。事故。病気。などなど。
何故自分がそんな目に遭わなければならないのかと懊悩する。
人為的なものであったら、加害者に対して、たとえ当事者でなくても
許し難い怒りとともに、「厳罰だ!」と叫びたくなる。
そんな不条理は大なり小なり誰もが体験するが、
そういう自分が不条理の生みの親だったりすることもあるので
人ごととしては話せない。
気まぐれやわがまま。偏見や思いこみ。プライドや傲慢。
狭量な人格や間違った自信。などなど。
そうしたものが一人歩きして、自分と周りを支配してしまう。
人を傷つけ、平和を壊し、こじれてしまうと疑心暗鬼。
そんな一切合切の不条理を背負って立つのがイエスの十字架。
その前に、加害者として立つにしても、被害者として立つにしても
双方に平和をもたらすためにたち続ける十字架。
自責の涙をぬぐってもらった平和と不条理を共有することで見つけた密かな癒し。
いずれも不条理の死がもたらす不条理の神秘。
で、十字架は、その前に立って胸を打ち、己のふがいなさと罪の深さを
思い知るためだけにあるのではないことを忘れてはならない。
パウロを見るがいい。
「イエス・キリストは十字架の死に至るまで…」と言う時
かつて自分の目の前で縛り上げられた無抵抗のキリスト者たちのことを
忘れていなかったに違いない。その、加害者も加害者、極悪非道の大悪人から
平和の使者となったパウロの秘密こそ十字架の神秘そのもの。
平和を生む十字架の不条理。キリスト者の合い言葉、
ニナリニクイ。