復活をひらがなで言おうとすると…
ヨハネによる福音20,1-9
2002.3.3記
週の初めの日、朝早く、未だ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。 そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走っていって彼らに告げた。
「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか私たちには分かりません。」
そこで、ペトロともう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
(略)
イエスの頭を包んでいたおおいは、亜麻布と同じところには置いてなくて、
離れたところに丸めてあった。(略)
日本人はお墓を大事にします。
故郷に、久しぶりにかえると、必ずと言っていいほど、先祖のお墓参りをします。
でも、お墓は、特に夜など、一番行きたくないところです。
気持ち悪く、怖いところということになっています。
お墓にはいるというのは死ぬということです。
死ぬということは、あれもしたい、これも欲しいと思ってことが
みんなできなくなるということです。つまり、私たちの希望が
みんな亡くなってしまうということです。
「死んだらお終い」というのはそういう意味です。
ですから、お墓には誰も入りたくない。世界中の誰もが、
一番行きたくないと思うところがお墓です。
だから、世界のどの人も、「希望がなくなることを一番恐れている」と言うことだできます。
ところで、イエス様は、みんなが、一番行きたくないところに行ったわけです。
そして、イエス様を応援していたおばさんたちがお墓参りにいったら、
なんと、三日前に葬式を済ませたイエス様の体が、消えていて、お墓は空っぽだった。
しかも、
イエス様が、お墓からヒュル~ンと出て行くのを見た人は誰もいなかったのです。
だから、イエス様が、一体どうやってお墓を出たのかは未だに謎のままなのです。
謎は、謎として置いておくとして、
大切なことは、復活の意味を学ぶことです。
お墓の話しとは反対のことになりますが、
世界のみんなが憧れていることは何かというと、実は、復活なのです。
人間であれば誰でも、自分らしく、生き生きと、楽しく行きたいと思うでしょう。
でも、実際は、もっと遊びたいと思っても勉強や宿題をしなければならない。
宿題や試験がなければどんなにいいだろう。
気の合う友達といつまでも一緒に遊べたらどんなにいいだろう。
世界から戦争が亡くなってみんなが友達になれたらどんなにいいだろう。
世界中のみんなが美味しいものを食べられたらどんなに平和なことだろう。
こんな憧れが実現するのが復活です。
こんな憧れは世界のみんなが持つ憧れなので、
復活はみんなの憧れということが出来るのです。
私たちのいろいろの憧れが壊されて、お墓に入れられるように、
一人一人の中から希望がなくなりかけるとき、
道に迷ってしまった時のように
どこに向かって生きていけばいいかも分からなくなったりするとき、
何かに失敗したり、叱られて悔しい気持ちになったりした時、
「私は復活した~。希望捨ててはいけな~い」
とイエス様が励ましてくれるのです。
復活を信じるというのは、「そんなイエス様を信じる」ということなのです。
五、六年生に:少しは分かってもらえたかな。
大人に:漢字を使ったのに「ひらがなで言うと」が分かったかしらん。