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生きて働く

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 15時37分

今週の聖書

ルカによる福音24,28-35

2002.4.13記

一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
二人が、「一緒にお泊まり下さい。そろそろ夕方になりますし、
もう日も傾いていますから」と言って無理に引き留めたので、
イエスはともに泊まるため家に入られた。
一緒に食事の席に着いた時、イエスはパンを取り、賛美のお祈りを唱え、
パンを割いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、
イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は、「道で話しておられる時、また聖書を説明して下さった時、
私たちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、
十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して
シモンに現れたと言っていた。二人も道で起こったことや
パンを割いて下さった時にイエスだと分かった次第を話した。

今週のポイント「…あなた方が言うそのナザレのイエスはですね、
その人こそ救い主だったということですよ。」
「えっ!?」
「ほら、イザヤ書に出てきますよ。

『わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、
彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。』(イザヤ53章)

とありますが、ここで言う「彼」というのが、そのナザレのイエスのことですよ。
皆さんは、来るべきメシアというと、軍馬にまたがった華やかな王様を
想像していたかも知れませんが、違うんです。」
「え~っ!?」
「だって、ほら、あなた方が見ていたイエスという人は家もなく、
身分もお金もなく貧しかったでしょうが。
でも、ファリサイ人や律法学者たちと違って、言葉には力があり
人を感動させ、死んだ人までも生き返らせる力に満ちていたではないか。」
「え~、そうです、そうです!なるほど。」
「でしょう!
あの偉大なモーセに始まって全ての預言者が指し示しているメシアこそ
そのナザレの人だったんですよ~。」
「ゥ~ン、でも、お墓は空っぽだったというし、
いつまた会えることやら…。」
「じゃ、私はこれで…」
「ちょ、ちょっと待って下さい。続きをもうちょっと聞かせて下さい。」
「もう充分話したことだし、先を急ぐものだから。失礼します。」
「ま、ま、そうおっしゃらずに。ん、ナンだったら泊まっていって下さい。」

「父よ、あなたを賛美致します。… さ~取って食べなさい。」
「ええ~っ!!では、あなたが…。あっ、ちょちょっと。ァ~消えてしまわれた。」

また、想像の世界に遊んでしまった。
復活の主は、自分のことなんか気にしているのいないのか…。
そんなあなたと共にいることをあの手この手で分からせようと
今も生きて働いておられる。
そして、あなたはその証言者。
それだけを言いたかった。


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