石が生きるー密かな自覚を願って
使徒ペトロの手紙1ペトロ2,4-9
2002.4.26記
愛する皆さん、主のもとに来なさい。主は、人々から見捨てられたのですが、神にとって選ばれた、尊い生きた石なのです。
あなた方自身も生きた石として用いられ、霊的な家に作り上げられるようにしなさい。そして、聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないいけにえを、イエス・キリストを通して捧げなさい。
聖書にこう書いてあるからです。
「見よ、私は選ばれた尊い要石をシオンに置く。これを信じる者は決して失望することはない。」
従って、この石は、信じているあなた方には、かけがえのないものなのですが、信じない者達にとっては、
「家を建てるものの捨てた石、これが角の親石となった」のであり、また「つまずきの石、妨げの石」なのです。
彼らは、み言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。
それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れて下さった方の力ある業を、あなた方が広く伝えるためなのです。
「あなた方は、生きた石。聖なる祭司。」「ハ~?」
「あなた方は、選ばれた民。」「ハイ。」
「あなた方は、王の系統を引く祭司。」「ハ~?」
「あなた方は、聖なる国民。」「ハ、ハ~?」
「あなた方は、神のものとなった民。」「ア、ハイ。」
こんな風にいわれても、こんな風にしか答えようがない?
「そうだ!」と気合いを入れたくなるのは教会当局者?ぐらい?
しかし、その当局者にしても、その自覚のほどは怪しい、とよく思う。
立場上、信徒に気合いを入れようとする気持ちは分かるが、
上滑りしてあまり効果が上がらないのは何故か。
理由など分からないが、
それでも、当局側の一人として、実は、ペトロのこの箇所は大好きなのだ。
効果が上がろうが上がるまいが、
一番、気合いの入れ甲斐を感じるところなのだ。
気合いを入れる時のキーワードは「祭司」。
「聖なる」も「王の系統」も「選ばれた」もいわばどうでもいい。
問題は祭司。神と人との間に立つ者。
アメリカが逆立ちしても、イスラエルVSパレスチナの仲介など
成功するとは思えない。いや、成功して欲しいのだが…。
それにも増して、仲介役を実質的に果たす人々こそ「あなた方、祭司」。
「ハ~?」
あなたが洗礼を受けているなら、好むと好まざるとに関わらず
あなたは祭司なのだ。なぜなら、洗礼はそうなるためのものだから。
だから、好むと好まざるとに関わらず、あなたは仲介者。
一方にくみしてはいけない。あくまで間。
「ハ~?そんなことできるわけがないだろう!」と怒鳴りたくなるだろう。
そうです。腹を立ててもいいんです。一方にくみしてもいいんです。
人々を呪ってもいい。たとえ石のような心の信者でもいい。
いや、問題だらけで、人のために祈るどころではない、としても。
それでも、
あなたは祭司に戻らないといけないのです。
拳を振り上げながらでもいい。腹を立てながらでもいい。
自分の家庭のため、あの壊れた夫婦、苦労の絶えないあの家族、などなど。
「神さま、アンタが何とかしてくれ~」と叫びさえすれば、
あなたは立派な祭司なのだ。いや、冷静にミサを捧げる当局の職業祭司たちより
あなたは、はるかに生きた祭司なのだ。
あなたが、どんなに無自覚で、教会の床を痛めない信者であったとしても、
心底、痛みと嘆きをもって、誰かの幸せのため神に願ったことがあるなら
イエスはその一事に大きく頷き、ガッツポーズを惜しまない。
中でも、ミサはあなたが祭司となる最高の叫びの場。
で、あなたが、密かに祭司をやればやるほど、あなたは誰よりも信者らしい。
アメリカ以上に平和に貢献しているといっても過言ではない。
巷の祭司たちに栄光あれ。
*明日から二泊三日の夫婦のための集い(MEの部屋に詳報)で
宝塚黙想の家へ。参加夫婦7組。主催夫婦3組。
乞祭司的祈願。