昇天よりも大事なことがある?
使徒パウロのエフェソの教会への手紙1,17-23
2002.5.10記
皆さん、どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の源であるおん父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることが出来るようにし、心の目を開いて下さるように。
そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者達の受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせて下さるように。
また、私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせて下さるように。
神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天においてご自分の右の座に着かせ、全ての支配、権威勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。
神は、また、全てのものをキリストの足下に従わせ、キリストを全てのものの上にある頭として教会にお与えになりました。
教会は、キリストの体であり、全てに置いて全てを満たしている方の満ちておられる場です。
あなたが主の昇天を祝ったからといってどんな感慨が湧くだろうか。
何の感慨も湧かない、のではないか?
今日の福音よりも、と言ってはナンだが、
パウロの手紙にこそ味わうべきことは多い。
つまり、昇天の事実よりも、イエス昇天後の教会の質こそが問題。
質と言えば、
司教にしても、司祭にしても、信徒にしても
主の復活昇天を祝った「信仰者」の質が問われているのだ。
信仰者の質がいい、悪いの基準は、パウロの言葉を借りれば、
「心の目が開いているかどうか」ということになりそうだ。
「心の目が開いている」なら
「信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力」を知って、
いかなる時も希望の証人になれるように思うからだ。
来る日も来る日も、ロザリオを捧げる熱心さに
「落ち着いたいい信者だな~」と思っていたら、
ある時からぱたりと姿を見なくなった。
ロザリオどころか、日曜日のミサにも顔を出さなくなった。
気になったので、身近な人に聞いてみた。
「息子が大学に受からなかったからです。」
まさかと思ったが、受験シーズンが終わった頃と符合するので
あるいは本当かも知れないなとナットクした。
神さまとの話し合いがうまいことまとまらなかったということだったのか。
それが本当だとしたら、気持ちは分かるが、彼女の「心の目が開いてなかった」
と言わざるを得ない。
あなたに思い当たるふしは?
「昇天したイエス様は、もう苦しんだりしない。」
「ウソか、本当か。」
ミサの説教で、子供たちに聞いた。首をかしげる中学生。
一通り聞き終わったところで、
側にいた祭壇少年隊隊長ジョナサンが、「ウソ。苦しむ」と答えた。
ミサごとに側で仕えているだけあって、司祭の手の内を読むのが早くなった。
そうなのだ。今日ミサの後みんなで退院祝いをする
美智恵ちゃんが脳腫瘍の手術を受けた時、
お父さんやお母さん、それにお姉ちゃんは他の誰よりも苦しかった。
でも、イエス様も、同じ気持ちで「手術が成功するように」
祈っておられたのだ。
いや、「どんなことになっても、みんながその辛さを受け取れる力を与えて下さい」
とも祈っておられたはずだ。
十字架で歯をくいしばって頑張ったイエスさまが
私たちの苦しみに知らんぷりするはずがない。
子供たちにどれだけ伝わったかは分からないが、
そんな思いで生きていく信仰者の心の目はイエスを見ている。
これがみんなの信仰になって欲しい。パウロはそう祈っているように思う。
昇天よりも大事なことなのだ。
だが、もし、あなたがそうなら、あなたはもう昇天している。アレルヤ。