霊はアタマには来ない
作成者 admin
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最終変更日時
2006年03月29日 22時52分
使徒パウロのコリントの教会への手紙12,3b-7,12-13
2002.5.18記
聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」とは言えないのです。
賜にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは、同じ主です。働きにはいろいろありますが、全ての場合に、全てのことをなさるのは、同じ神です。一人一人に”霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
体は一つでも、多くの部分から成り、体の全ての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、私たちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませて貰ったのです。
信者はみんな同じDNAを貰っているということなんだ。
本文を読んだ素直な感想。
人はみんなガン細胞をもっているそうだが、現れる人と現れない人がいる。
同じように、霊というDNAが現れる信者と現れない信者がいる。
なるほど。これも素直に納得できた。
では、一体、その違いはどこから来るのか。
つまり、全体の益となる信者もいれば、益とならない信者もいる。
いや、こんな言い方はあからさま過ぎるし断罪の臭いがするので良くない。
「全体の益となる場合もあるし、自分の益ばかりを求めたりする場合がボクにはある。」
と言うことで、違いの由来をたどると…。
「イエスは主である」がキーワード。
つまり、「イエスはキリスト、救い主」ということは
あなたがごく普通の信者なら、
当然のように、あるいは無意識のうちに宣言できる命題。
とするなら、
あなたはことの重大さに気がついていない。
つまり、「イエスは主である」と宣言するのは
「イエスは私にとってナンバーワンのお方」という意味での重大さ。
あなたが、病気は別として、何かの問題に直面したとしよう。
誰かに相談するに違いない。
そして、「祈って下さい」と言って、電話を切るなりすだろう。
その場合、あなたにとってイエスは、ナンバーツー。
いや、これでも祈って祈って分からないので相談したのだ
としたら、ナンバーワンでは頼りないということであって
やはりイエスはナンバーツー扱い。
これは、何もあなたに限ったことではない。
司教、司祭、修道者にも容易に見ることの出来るかなり深刻な症状。
誰の場合でも言えることは、
「イエスは主」をアタマで信じているから。
アタマの信仰がイエスをナンバーツー以下に落としている。
ということに気がつきにくい。気がついても大して気にしない。
聖霊はアタマの信仰は苦手で、
イエスがいつまでもナンバーツーに甘んじなければならないのは
アタマの痛いところだが、
かといってアタマに来たりはしない。
おかげでボクはこうして、平気な顔で司祭を続けることが出来る。
なるほど、とナットクしたら、今日はあなたの聖霊降臨。