みんなの憧れ三位一体
使徒パウロのコリントの教会への手紙二13,11-13
2002.5.26記
兄弟たち喜びなさい。完全なものになりなさい。励まし合いなさい。そうすれば、愛と平和の神が、あなた方と共にいて下さいます。聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。全ての聖なる者が、あなた方によろしくとのことです。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなた方一同と共にあるように。
月一回の「子育て聖書クラス」。
先ず皆さんに聞きますが、「生きていく時、難しいと思うことはどんなことですか。」
「人間関係。」
「人間関係は、どうして難しいと感じるのでしょうか。」
「それぞれ違うから。」
…
「違いを認め合うのが無ずかしい」ということになった。
では、私たちの深~い憧れ、と言うか願望は何でしょうか。
…? …? …? …?
一同、困惑、困惑、困惑、…
では、どんなとき、嬉しいとかやる気が湧いたりするでしょうか。
…
「認められた時。」「評価された時。」
園長先生の誘導尋問に引っかかった感じの結論ではあるが…。
なのに、コリントというギリシャの街の信者たちは分裂したのです。
それでパウロは、長~い手紙を書いていさめた。
今日の箇所は、その締めくくりの言葉。
自分は認められたいと願いながら何故人を認めることが出来ないか。
それでも、世界平和を祈り、和解を願う。
内を見れば、平和を損ない、和解を拒む自分があり、
外を見れば、政治、経済、外交などなど腹立たしいことだらけ。
ああ、人間永遠の憧れへの道多難。
ああ、なんという世。
こんな世の現実の中で、憧れでしか祈れない自分も世の一部。
そんな世を、そんな自分を「神は、…愛された。」(ヨハネ3,16今日の福音)
この自分を愛して下さる同じ、あるいはもっと強い愛で
日本を不幸にしていると外国から叩かれる人々を、
独居老人を襲って金を巻き上げる卑劣漢を
好きになれないお隣を、などなど、
優しく包んでくれる。
そんな視点がコリントの信者たちには欠けていた。
で…?