マタイが呼ばれた本当のワケ
作成者 admin
—
最終変更日時
2006年03月29日 13時12分
マタイによる福音9,9-13
イエスは、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「私に従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられた時のことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、
弟子たちに、「何故、あなたの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病人である。『私が求めるのは憐れみであっていけにえではない』とはどういう意味か行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
話しは突然飛躍するが、
アフガニスタンはタリバン時代よりも治安は悪化しているという。
自由化は都市部のみで、大多数の農村の人々は、ブルかを脱がず、
戦争で国土が荒廃し、生活は以前よりも苦しいのだという。
一体何を喜べばいいのか戸惑ってしまうが、
偏った報道のせいだとその人は言っていた。
偏った、報道、一方からのみ来る情報。
何が本当か、判断を誤ってしまう危険はいつもあるように思う。
世の中に、120パーセント悪いい人もいなければ、
同じく120パーセント正しい人もいない。
分かっていることなのに、ちまたには、アメリカを見るまでもなく、
自分だけが正しいと思いこみ、他を排除する現実は山ほどある。
もちろん、排除すべき不正があり、除くべき人もいることは確かだ。
しかし、こじれた人間関係が身近にないことを祈るが、
気持ちが合う、合わない、相性が悪いなどのレベルになると
真実などというのはいとも容易に吹き飛んでしまう。
何が真実かではなく、やることなすこと全てが容認できなくなり、
針小棒大、全てが、相互に、不利に作用し合うようになる。
これがこじれた関係というもので、調停や訴訟の背景だ。
話しは、突然今日の福音に戻るが、
イエスが見た、当時の社会は、別に、こじれた関係が
ここかしこで訴訟問題を起こしていたというのではなさそうだ。
敢えて、言えば、ファリサイ派は一級の人で、
イエスを含む庶民は二級の人で、
マタイのような徴税人は三級どころか、不可触の罪人。
そして、ユダヤの統治者ローマ人は超一級。
そうした、厳然とした差別というか、
棲み分けがなされていたのは事実のようだ。
で、その結果、どういうことが起こったかというと、
例え、マタイが人助けをしたとしても
人が彼を見る見方にはいささかの変化も生じなかったということだし、
究極のこじれた関係が蔓延していたと言えよう。
しかも、それは、人々から真実に対する感受性を奪い、
真実が無視されることに対する痛みすら麻痺させるほどに深く
人々の心を支配していた。まさに人々皆が、社会全体が病んでいたのだ。
マタイを呼んだ時、イエスの声は、
差別の渦中で叫びを忘れたマタイへのやるせないほどの悲しみと、
そんなマタイの現実を生んだ社会への怒りと
世直しへの決意に震えていたに違いない。
イエスが、あなたを呼んだホントのワケを
あなたは知っているだろうか。