レッドカードでも退場にはならない
使徒パウロのローマの教会への手紙5,12-15
一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表すものだったのです。
しかし、恵みの賜は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜とは、多くの人に豊かに注がれるのです。
様々なドラマを残してサッカーのワールドカップが最終局面に来た。
かねてJリーグなど見たこともないボクでも即席のサッカーファンになった。
おかげでイェローカード二枚でレッドカードとなり即退場ということも知った。
しかし、リプレイで見ると、明らかにライン上なのに、外の判定で
折角のゴールが認められないというたぐいのミスジャッジが何度かあった。
で、審判には誰がレッドカードを上げればいいのか。
当事者でなくても釈然としないが、審判がカミさまなんだから仕方ない。
ところで、パウロが罪と言う時、彼は自分の罪を忘れてはいない。
彼の生涯で、最大のレッドカードとも言える、キリスト教徒狩り。
彼の手にかかって断罪処刑された人の数は知れない。
武装したローマ人たちを従えた彼の急襲にあって
逃げまどうキリスト教徒たち。剣を突きつけられて哀願する女性や幼子たち。
ライオンの餌食となって果てていった若者や父親たち。
自分が如何に無知だったとは言え、そして、全て赦されたこととは言え、
忘れようにも決して忘れることはできなかった。
善良な人々に言われなきレッドカードを突きつけて
虫けらのように地上から抹殺した償いきれないほどの罪の深さを。
忘れてはならないことは他にもあった。その罪の深さを思えば思うほど
それにも増して、表現しようのないほどの、赦しという恵みの大きさを。
そして、神は、この自分にさえもレッドカードをくれなかったことを。
その神の赦しの透明性を。そして、その恵みの伝達者に呼ばれたことを。
で、今日の手紙は、罪がテーマではないことが分かった。
神は、このボクが、如何にレッドカードに値することをやらかしたとしても
決して退場にはしない。司祭であり続けることを赦してくれている。
そのことに、気づいて欲しい。
そんなことに気づけば気づくほどあなたは信者らしくなれる。
「神の手元にはレッドカードなどあるはずがない!」
赦された大罪人パウロの信仰宣言。