荷を軽くする秘訣
マタイによる福音11,25-30
2002.7.7記
その時イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたを褒め称えます。これらのことを知恵あるものや賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よこれはみ心に適うことでした。全てのことは、父から私に任せられています。父の他に子を知るものはなく、子と、子が示そうと思う者の他には父を知るものはいません。
疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私のくびきを負い、私に学びなさい。そうすればあなた方は安らぎを得られる。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである。
「奄美の自然に触れて癒されました。」
いつぞや、大阪の青年たちが奄美で集会をもった時の感想だ。
来島した多くの若者が同じセリフを口にしたので
「サテモ、都会の若者は疲労困憊、傷つき病んでいるのか」
と心から同情したことがある。
そして、自然の持つ癒しの力に改めて感動したものだ。
その後、「癒された」というのは、「ホッとした」程度の意味で、
流行りの表現なのだ知った時は、興ざめしたが、
それでも、そんな大げさな言い方をしたくなるほど、
辛いことが多いんだろうなあという感想は変わらなかった。
担った重荷は、なかなか軽くならない。
そう実感することは多い。
神は担いきれない重荷はくださらない。そう言い聞かせる事もある。
「それにしても、どうして…?」とやっぱり神さまに文句を言いたくもなったりする。
これが人生なんだと達観したりもする。
などなど。
しかし、実際に重荷が軽くなった経験も数限りない。
親や教師や先輩、そして友人の励ましの言葉。
本やテレビで紹介される多くの感動物語。
たかがペット、されどペットのアニマルセラピー。
美しい自然や人との出会い。
などなど。
素朴に、「信者で良かった」と実感したことのある人には
こんな回りくどい前置きなどなくても、
まして
「荷を軽くする秘訣」などと大げさな言い方をしなくても
とっくに、分かり切ったことなのだが…。
でもやっぱり言いたい。
たとえ、世に感動物語が五万もあろうと
世は、究極の癒しを手にしてはいない、と。
世と言わずとも、私やあなたの癒しが実現しているなら、
違いを認め合うのにこんなにも苦労対立し、
面子にこだわって自我を押し通し、
全体の秩序保持を最高の価値として少数派を退け、
自分が本当は何を恐れているかもはっきりさせられないまま
人ごとのように愛と赦しを説く。
そんな現実が起こるはずがないではないか。
世である私もあなたも、ことに教会当局者たちが、未だに混乱と混沌の中にある。
そう実感できないところに病の深さがあるのだ。
そんな混沌の中で、イエスはこう言われる。
「私のもとに来なさい。私に学びなさい。」
それ以外の秘訣はない。