天の国の危うさ、もろさ…
マタイによる福音13,1-9
2002.7.14記
その日、イエスは家を出て、湖の畔に座っておられた。すると、大勢の群衆が側に集まってきたので、イエスは船に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。
「種を蒔く人が種まきに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。他の種は、石だらけで、土の少ないところに落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。他の種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが他の種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳ある者は聞きなさい。」
以前にも取り上げたように思うが、もう一度。
この後18節に飛ぶと、四つの場所に落ちた種がみことばを受けた人のこと
と言う説明がついている。種はみことばかと思ったら人であったり
蒔かれた場所は人の状態かと思ったらそうでもないような…。
そんな不満は残るとしても、要するに、
「四種類の人がいて…」という話しではないのだ。
結論から言えば、この四種類の人は私の四面だと理解すると
あまり熱心でもない自分はどっちなんだろうとナヤム必要もなく
そういえば、あんなに熱心だったのに最近見なくなったなあ
などと心配する必要もなくなる。
イエスともあろうお方が、そんな、レベルの理解を求めたとは思いたくない。
そうではなく、今日の話のポイントは、
まさか、それが私だなどととても言えそうにない
「あるものは百倍、…六十倍、…三十倍にもなった」なのだ。
あなたが、自分は大した信者ではない、と言わないとしても
ごく普通の信者に過ぎない、と言ったとして、
「そうじゃない、あなたはすばらしい」と誰かが言ったとしよう。
あなたがフツウの信者なら、手を振って取り合わないだろう。
実は、そこが問題なのだ。信仰をはき違えているからだ。
実は、この話が目指しているのは、
あなたが熱心かどうか、フツウの信者かどうか、たまにしか行かない信者かどうか
などと言うことを問題にしているのではない。
たとえそんな信者だとしても、
「あなたには百倍、六十倍、三十倍、それぞれ違うとしても、
豊かに実って欲しい」という父である神の夢が語られているのだ。
ダメなところも沢山あるが、そんなことお構いなしに、
あなたにみ言葉を託し、そのみ言葉が実を結ぶ夢を見続けている
父の思いをイエスは語っている。
そのことに気がつかないなら、あなたは信者とは言えない。
実を結ぶ。
信者であればなおの事、そうだなくてもそれなりに、
あなたがあなたらしく一番輝く人生が父のこの上ない夢なのだ。
で、信者とは、神と夢を共有する人のこと。
危なっかしくて見チャオレンこのボクに天の国の夢を託した天の父。
そこに天の国の神秘がある。