自分の福音を書く
使徒パウロのローマの教会への手紙8,28-30
2002.7.25記
神を愛する者達、つまり、ご計画に従って召された者達には、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。神は前もって知っておられた者達を、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者達を召し出し、召し出した者達を義とし、義とされた者達に栄光をお与えになったのです。
熱血漢パウロは、
猪突猛進、ひたすら走り続ける向こう見ずな人ではなかったようだ。
その自由奔放さは彼の感性そのものだった。
子だくさんの家族で、長男は、無口で実直。
叔父たちも、「長男の寡黙さが最も男らしい」と言って
受けを狙って余計なおしゃべりの多いボクを牽制したものだった。
ある時、パウロは悟った。自分が呼ばれたのは、
自分の能力を振り絞り、模範的使徒になるためではなく、
「御子の姿に似たものに」なるため、つまり、
寡黙で実直な長男イエスをたてて生きる兄弟になるためだったと。
イエスをたてる生き方?
有為転変の渦中で「万事が益となるように働く」と言えるだけの
物事を読み解く力を付けること。
知力によるのでなく、長男イエスの生き方を仔細に眺めることで
自ずと湧く自分なりの前向きな決断と言ってもいい。
とんでもない!と叫びたくなることに直面させられる時でさえ
呪文のように、「万事が益となる…万事が益となる…」と独り言(ご)ちながら
寡黙になれたら、イエスの兄弟への道を辿っていることになる。
実は、イエスが寡黙になる時、それは父との対話の時だった。
それなしに、イエスは、あの不条理な十字架を前にして
とても持ちこたえられなかったに違いない。
そんなイエスの生き方から生まれた究極の福音こそ復活。
パウロが、艱難辛苦の中で発見した使徒としての生きる姿勢
「万事が益となる…」こそ、究極の福音を実現する道だったのだ。
パウロが述べる彼なりの福音。
あなたも書くように呼ばれている。