行き違いの美学
マタイによる福音16.21-27
2002.9.1記
イエスは、ご自分が、必ず、エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに語られた。するとペトロは、イエスを脇へお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは、振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って私について来なさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払い得ようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共にくるが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」
びっくりしてイエスをいさめるペトロ。
イエスの激しい反撃に鳩が豆鉄砲、口あんぐりのペトロ。
「オーヨシヨシ」と巨人に頭をなでられて
小馬鹿にされたあのチビの阪神が
火がついたように怒り出す。
見ている者は思わず笑い出す、といういつものパターン。
イエス様には失礼だが、
そんな漫才の世界を彷彿とさせるイエスの激怒。
自分を捨てるだの、命を救うだの言われても
ペトロにはほとんど意味不明。頭は完全にフリーズ。
そんなことお構いなしにまくし立てるイエス。
「何もそこまでおっしゃらなくても…」
「まま、落ち着いて落ち着いてください!」
「ペトロも悪気があって言ったんじゃないんですから…」
「あなたのことを思えばこそ…」
ボクの中の常識が、俄然、元気づき、イエスの言動を斬りまくる。
気が済むまで言いたい放題。
やがて、自分の言葉がつき、フッと一息つく。
すると、
「私の邪魔をする者…私の邪魔をする者…」
イエスの言葉がこだまし始めた。脅迫めいてさえくる。
いつの間にか、まじまじと絶叫するイエスの顔を眺め入る。
やがて、常識が念力を失い、イエスの真剣さに引き込まれてしまう。
「言いたいことが山ほどあるんだ。」
「ボクには時間がないのだ!」
「ペトロをしかっているんじゃない。」
「今は分からなくてもいい。そのうちきっと分かってくれる。」
「本心でサタンなどと思っているんじゃない。」
イエスの気持ちが暴力的に吐露され、
妥協を許さぬほど真剣に怒ることが出来るイエスの人間性に惹かれ、
そんな真っ向勝負の人間関係にウットリ。
気がついてみたらミイラ取りがミイラに。
ナンダ、と言わないで欲しい。
イエスの気持ちと思えるところまで行き着いただけで
あなたはもう立派な弟子なのだ。
師の気持ちを解さない弟子は不幸なだけだ。ユダはそうして自滅した。
イエスの、高等数学を解くような不可解なことに出会ったら
無理に解こうとするのが弟子ではない。
まくし立てる先生の真剣さに寄り添うだけの弟子。
ゲッセマネでイエスが求めたのはそんな弟子像だった。
行き違いは不幸ではなく、
私の常識がイエスには非常識。
この原則にあなたをいざなう限り、行き違いは美しい誤解なのだ。
あなたも確かめる価値があります。