実用的がいい
使徒パウロのフィリピの教会への手紙2,1-11
2002.9.29記
あなた方にいくらかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、”霊”による交わり、それに慈しみや哀れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。これはキリスト・イエスにも見られるものです。
キリストは神でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(略)
実用的と聞けば、まず念頭に浮かぶのは、
「便利で使いやく、役に立つ」ということではないかと思う。
信仰が実用的、という言い方は普通しないし、
信仰を便利で使いやすいなどと思う人はまずいない。
しかし
信仰は大いに役立っていると思う人は多い。
そういう意味で、信仰は実用的側面を持ち合わせている。
一人での祈りやミサ。聖書。
そうしたことがどれだけ自分をいやし、希望をもたらしたことか。
信仰のない人生はもはや考えられない。
にもかかわらず、
実用的でない信仰がいかに横行していることか。
今に始まったことではないらしい。
へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
そう注意しなければならない理由があったに違いない。
そう言えば、
「あなたの信仰はもっと実用的になった方がいい」
つまり、「何のための信仰かと」と思うことは確かに多い。
信徒、司祭、修道者、司教を問わない。
①大きい教会ほど思惑が交錯して一筋縄ではいかない。
②司祭も権威を振りかざすのが指導力だと勘違いしたりする。
③仲間の悪口を言い合う修道者も珍しくない。
④都合の悪い発言には耳を傾けたくない司教さんがいてもおかしくない。
要するに、何でもありの人間の集まりが教会。
それはそれでいい。
だが、パウロの次の言葉を突きつけられているのも
教会であることを軽く見るなら、教会の質をゆがめてしまう。
キリストは神でありながら、神と等しいものであることに
固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、
僕の身分になり、人間と同じものになられました。
上記の①②③④は、だから、この事実を厳粛に受け止めていない結果
にすぎず、形は教会でも中身は似て非なるものになっている。
それぞれが自分の価値をアピールすることをやめて
黙して語らない十字架のイエスの元にぬかづき
十字架からの声なき声を聞くとき
信仰の実用性は高まり、教会が癒しの場となるだろう。
こうして、信仰の質がアップ、使うたびに思わずにっこり、
平和の挨拶を思わず交わしたくなるミサ。
気がね、遠慮、自己卑下、かみしも、権威を脱ぎ捨てて
皆が僕の気安いつきあい。
「私の喜びを満たしてください。」