インスタント宴会の危うさ
マタイによる福音22,1-14
2002.10.11記
天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は、家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこで、また、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。「招いておいた人々にこう言いなさい。『食事の用意が整いました。牛やこえた家畜を屠って、すっかり用意が出来ています。さあ、婚宴においで下さい。』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送ってこの人殺しどもを滅ばし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意は出来ているが、招いておいた人々はふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけたものは誰でも婚宴につれてきなさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めてきたので、婚宴は客でいっぱいになった。(略)王は『ともよ、どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか』と言った。
招かれる人は多いが選ばれる人は少ない。
天の国が市民の拉致で始まるとは!
もっとも、自分としては、卑しい話しだが、
ただで飲み放題とくれば、諸手をあげて拉致を願い出るところだが。
案の定、この話しの落ちは、
失礼な男がつまみ出されることになっている。
やはり、うまい話には気をつけた方がいい?
冗談はともかく、善人も悪人も招かれたのだから
ボクみたいにたらふく飲めるという下心を持った人間や
面白半分、興味本位の客がいてもおかしくない。
この話のややこしさは
面目丸つぶれに逆上し、すべてをめちゃくちゃにした王様が
実は、神様のことだということになっているところにある。
理解に悩むところだ。
「自分のしたいことはなんとしてでも実現する専制君主。
実際、神は我々の意志と無関係に働き、辛いことは摂理だからと
黙らせてしまう」と切り捨てる辛口の評論家にもなりたくなる。
「これは国民に見捨てられた王様。それでも、自分を支持してくれる国民を
探し続ける王様。取り巻きがいれば国民はどうでもいいというのではなく、
国民なしには生きていけないが国民に強い期待も忘れない。
その期待とは、いろんなタイプの国民がいていいのだが、
『自分の気持ちが分かる国民になって欲しい』ということで、
そうなることが、国民にも自分にも最良のことだと信じて疑わない
いわゆる良い王様の典型的な例。神はまさにそんなお方」
と持ち上げる側にも回りたい。
さらに、これはあくまでたとえ話なので
次のように考えた方がいいと言う評論家にもなりたい。
「招待された人々は、自分自身のこと。
自分の中に、いろいろな顔を持った自分がいる。
あっさりと神から離れて我が道を行く自分もいれば、
ガタガタでも何とかわがままと戦いながら
神と共に生きようとする自分も確かにある。」
自己分析は必要なことだが、頭のレベルだけでは余り進歩しない。
あなたがカトリック信者なら赦しの秘蹟を何回受けても
変わりばえのしない自分の信仰の姿を見れば頷けるだろう。
などなど。
いずれにしても、やはりたとえ話ということで、
細かなことにこだわらずに、
「宴席をいっぱいにしたい」という一点だけに心を留めたい。
そうすると、二番目の評論がもっとも妥当。
天の国は、その人の道徳性よりも
気持ちが通じるかどうかのモンダイに重きを置いている、と考えたい。
気持ちの通わない人間関係が空しいように
気持ちの通わない、頭だけの信仰は天の国にふさわしくない。
話しはいつものように飛躍するが、
連日の報道で見るように、
拉致された家族の気持ちはいかばかりか。
しかし、戦後60年近く経っても癒されることのない拉致した側の
深い悲しみを思いやることなしに真の和解はない。
現実のとまどいは余りにも深いので、
ついつい現実に振り回され、神の思いなど絵空事に見えてくる。
なかなか足が地に着かない信仰の危うさともろさ。
それも分かるとして、それでも、
その現実の向こうのもう一つの現実を見落とすなら神の民の資格を失う。
イエスの警告がこの厳しいたとえ話を生んだ。