熱心さが問題
マタイによる福音22,15-21
2002.10.13記
ファリサイ派の人々は、出て行って、どのようにしてイエスの言葉尻をとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、私たちはあなたが信じつな方で、真理に基づいて神の道を教え、、誰をもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうかお教え下さい。皇帝に税金を納めるのは、律法にかなっているでしょうか。適っていないでしょうか。」イエスは、彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ私を試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持ってくると、イエスは、「これは、誰の肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のもは神に返しなさい。」
今日の話しを読む限り、
ファリサイ派の人々は、宗教家というより政治家の臭いが強い。
いや、あんまり生真面目で熱心なので、
自分のしていることがどこかおかしいのかもしれないなどと
振り返るゆとりすら持てなくなっているその辺の説教おじさんにも見えてくる。
ともあれ、
口ではイエスを評価し、支持しているように見えて、
本心を明確にしない。(人は実際いる)
何も知らないで、側にいると、思わず頷いてしまうのだ。
ある時、本心を明かされないまま、質問に答えた。
それだけのことだった。
しばらくして、大きなプロジェクトが立ち上がった。
何かと批判的な意見を述べ続けた。提案した側としては当然不快だ。
ところが、
このプロジェクトの提案者がボクになっていたことを知らされたときは
一瞬言葉を失った。
数週間前に質問された本当のワケがはじめて分かって愕然としたのだ。
ズルイゾー!ハメラレター!クヤシー!
ファリサイ派の人々は、病的なほどに超真面目人間たちで、
律法社会こそ神の夢という巨大プロジェクトを熱心に推進していたのだ。
ところが、イエスは事ごとに水を差すようなことばかり言う。
だから、今日のような質問をしたくもなる気持ちが分からないでもない。
いずれにしろ、
今日の福音の問題点はイエスの見事な答えにあるのではない。
問題は、
「人の真意が汲み取れないほどの、また、自分の非を認めたくないほどの
自信と熱心さに陥ってはいけない」
ということなのだ。
「熱心さは福音を壊す」かもしれないからだ。
これは自分のことではないと思う人が大半ではないかと思う。
そうあって欲しい。だが、自分の周りを眺めて
ここにイエスの心が生きている、
この人も神の子なのだ、
ここにも神の国が始まっている
自分を眺めては
反省するだけが信者だと思わずに
こんな自分に今日も神様が目をかけてくれた。
あの人を通して喜びが、このことを通して分かったことがあったから。
などなど。
そんな預言者の目を持った熱心でない信者になって欲しい。
イエスの答えの中身だ。