キリスト者の誠実さ
マタイによる福音23,1-12
2002.11.3記
イエスは弟子たちと群衆にお話になった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは見習ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすのに指一本貸そうともしない。
そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、「先生」と呼ばれたりすることを好む。だが、あなた方は、「先生」と呼ばれてはならない。あなた方の師は一人だけで、後は皆兄弟なのだ。また、地上の者を「父」と呼んではならない。あなた方の父は天の父お一人だけだ。「教師」と呼ばれてもいけない。あなた方の教師はキリスト一人だけである。あなた方のうちで一番偉い人は、使える者になりなさい。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
ノーベル化学賞に輝いた田中さんの人柄は、インタビューの様子で分かる。
いかにも誠実そうで謙虚。
誰もがそんな印象を持ったのではないだろうか。
誠実さは、私たちの人間関係の重要なキーワード。
かねて、特別意識するわけではないが、
ここと言うときに俄然表立ってくるのが「誠実かどうか」の問題。
誠実さは信頼を生み、さらにごまかしのない正直さへと通じ、
ひいては「この人なら大丈夫」という安心感を生む。
何よりも、誠実さは、言葉による派手さではなく、
「黙々」というイメージが似合う「謙虚な人」にたどり着く。
言葉や振る舞いにおける派手さに関して言えば、
ファリサイ派や律法学者の右に出る者はないというのが
今日の福音を読んでの感想。
滑稽な感じもするが、当人たちは大まじめだったに違いない。
大まじめと言えば
実は、この章節の後、イエスは、鬼気迫る形相で
律法学者とファリサイ派の人々を批判し攻撃する。
イエスにとって、誠実でない、つまり「言コトガ成ラナイ」
ことがいかに許し難いことだったかが分かる。
「言コトガ成ル」つまり、誠マコト真実真理を旨として
父の思いを忠実に生きている者として、
律法学者やファリサイ派の人々の言動は父を侮辱するに等しかった。
下手に、声高に神の言葉を説いているだけに
捨て置きがたい嫌悪と怒りが心頭に達した。
で、そんなイエスの価値観を踏みにじられた悔しさ、
一番大事にしている生き方を踏みにじられた怒りが
分かる人々が弟子たちであり群衆だった。
彼らこそ、イエスの誠実さの継承者といえる。
そして、あなたもその仲間に呼ばれた。