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百年分の賃金が「少しのもの」だって!

作成者 admin最終変更日時 2006年03月30日 11時01分

今週の聖書

マタイによる福音25,14-15,19-21

2002.11.16記

天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを預けて旅に出た。

さて、かなり日が経ってから、僕たちの主人が帰ってきて彼らと清算を始めた。まず、五タラント預かったものが進み出て、「ご主人様、五タラントお預けになりましたが、ご覧下さい。他に五タラント儲けました。」主人は言った。「忠実な良い僕だ。良くやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」

注:一タラントは約二十年分の賃金に相当する。

今週のポイント突然だが、
「百年分の賃金」と聞くと、夢のジャンボ宝くじを思い起こしてしまう。
そして、それを、「少しのこと」と言い放つイエスの
余りにも現実離れのする発想に戸惑ってしまう。
いやこれは、イエスの価値観の問題と言った方がいい。
百年暮らせる賃金がどれほどの額か見当もつかないが、
イエスのこの手の誇大表現は他にもある。

「…自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、
私のために命を失う者はそれを得る。」(マタイ16,25)
ここまではいいとして、その次、
「人は、たとえ全世界を手に入れても、
自分の命を失ったら何の得があろうか。」

マイクロソフト社は世界一の企業だそうだが、
だからといって、一人の人の命と取り替えたり出来るなどと
思う人はいまい。
もっとも、イエスが言う命はこの肉体の命そのものではなさそうで
何か、生き方の質を問いただそうとしているようではあるのだが。
つまり、健康に気をつけようというこの命をいたわるよりも
遙かに価値のある”いのち”に招こうとしていることも分かるのだが。

いのちの質と言えば、日本の子供たちは、
中国やアメリカの子供たちに比べて遙かに及ばないのだという
記事を読んだりすると、さもありなんと思う反面、
「子供だけでもないだろうに」と、嫌みも言いたくなったりする。
また、エイズのため国が滅亡するかも知れないとの報道もある。
貧困とエイズは表裏一体の、そうした現実もある。

ともあれ、これだけ世の中が神無き文化を肥大化させ
個々人にしろ、国家にしろ、とにかく経済力武力第一のグローバル化
ばやりだと、「百年分の賃金を貯たところで、それがどうした!」
どこからともなくイエスの叫びが聞こえてきそうな感じもする。

と、ここで聖書の本文に戻ってみると、
天の国というのは、実は、このいのちの質を問題にしている
らしいことが分かる。
そして、聞きようによってはイエスの皮肉にも聞こえてくるのだ。

百年分の賃金にも相当するいのちをいただいている諸君
君たちはそれをなんと粗末にしていることか。
諸君がいかに貧しく、無力だったとしても輝いて生きる価値のある人間なんだ。
ファリサイ派や律法学者たちがいかに蔑もうとも、
見栄えのいいことに目を奪われて
自分をつまらないガラクタのように思ってはいけない。
冗談じゃない。
自分のいのち、自分の人生。自分だけのものじゃあないんだ。
神さまから分けてもらった大事な大事な預かりものなんだぞ。
神様と一緒に喜べる!
そんな人生、百年分の賃金を払っても手に入る物ではないんだぞ!
自分の人生もっと大事にしなくちゃ!

イエスの天の国のボルテージはとまらない。


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