歩みを止めて…
マルコによる福音13,33-37
2002.12.4記
気をつけて目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなた方には分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ、家の主人が帰ってくるのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴く頃か、明け方か、あなた方には分からないからである。主人が突然帰ってきて、あなた方が眠っているのを見つけるかも知れない。あなたがに言うことは全ての人に言うのだ。
権力者たちの悪意に取り囲まれたイエスの口から発せられる警告に
誰が事態の深刻さに思い至ったことか。
気をつけて目を覚ましていなさい。
イエスを殺す計画が秘密裏に進めらる中
イエスの孤独感だけが高まり、弟子たちだけでなく、
イエス自身への叫びのようにも聞こえる。
ともあれ、いつ帰るとも知れない気まぐれな「主人」に
仕えたことがないので、「眠っているのを見つ」かったためしはないが…。
神学校に入った二年目だったと思う。
最初の二年間は共同の部屋で学習する。
授業は午前中、午後は一時間のスポーツの後はもっぱら自習。
そんなある日、友人のテーブルに行き、
声を潜めながら夏休みの計画を練っていたら、院長が入ってきた。
何も言わずに、後ろを通り、前の誰かに用事を伝え、
また黙って後ろを通って出て行った。
息を凝らして、彼が出て行くのをじっと待つ間の長かったこと。
この程度のことは、油断大敵、で済ませるかもしれないが、
イエスの警告は人生の一大事を前にしての警告だけに
立ち止まって思いめぐらす価値がある。
神学校の話しのついでに言えば、
「欲しいものと必要なものとの区別をするように」とよく言われたものだった。
何かが欲しいと思ったら、まず、本当に必要なものかどうか考えなさい。
新車の販売が6.8%の伸び、などという記事を読むと
経済破綻で日本は沈みそうだというのがウソのように思えるのだが…。
しかし、毎日やりくりしながらの生活を強いられている人が
多数を占めるのも本当だと思うのだが…。
あなたがに言うことは全ての人に言うのだ。
というイエスの言葉に従って言うなら、
とにかく、豊かであろうと無かろうと、どの人もみんな目を覚まして、
無造作に買って口に入れ、無造作に買って使い捨てる
のが当たり前になっているならそのことを
さらに、
自分自身と人との関わり、自分のこれまでの生き方までも
振り返ってみなければならないのだ。ということになる。
かといって、
全てに目を光らせて見直すことなど出来るわけがない。
で、 食に関するキーワード「安全かどうか?」で生きるのもいいが、
とりあえず、あなたにも神学生になってもらって
「本当に必要?」を生活のキーワードにしてみることをおすすめしたい。
マジメに取り組むなら、ケッコウ生きづらくなるに違いない。
いつもの歩みがいかに快適?だったことか!
だが、その時、「気をつけて目を覚ます」作業が始まる。