自覚三兄弟
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イザヤ49,3;5-6
わたしに言われた あなたはわたしの僕、イスラエル あなたによってわたしの輝きは現れる、と。
主の御目にわたしは重んじられている。 わたしの神こそ、わたしの力。 今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせ イスラエルを集めるために 母の胎にあったわたしを御自分の僕として形づくられた主はこう言われる。 わたしはあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)
1コリント1,1-3
神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、
コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。
わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)
イザヤの自覚・パウロの自覚・信者の自覚。これで、三兄弟。
先ずはイザヤの自覚とは。本文を読めば分ることだが、いくつか取り上げてみると、まず、私は「主の御目に重んじられている」という明確な自覚。この自覚はイザヤ自身が「国々の光」とされているという自覚まで発展することになる。
主の御目に重んじられている。主に目をかけて貰っている。誰かのお世話になっているということで恩義を感じるのは人間誰しも当たり前。それだけでなく、目をかけて貰っているとなれば、恩義を感じるという関係を超えて、自分の本当の価値や存在感を実感することになる。まさに、自分はいい者だという100%の実感。
ひるがえって自分と神様の関係を眺めてみるに、「お世話になっている」実感のレベルはあるとしても、果たして、「目をかけて貰っている」実感のレベルになると、時々あやふやになって心もとない。ましてや、この至らない自分が、「国々の光」として貰っているという自覚には遠く及ばない。さらに、「神こそ私の力」という実感も首尾一貫しない。
一方、パウロの自覚も相当なものだ。第一、自己紹介の説明文が長い。目をかけて貰い、使徒として召し出された自覚の深さの表れ?その点に関しては、使徒のところを司祭に置き換えれば自分のことになるので、パウロほどではないとしても、まあいい?として、日々世の荒波にもまれて生きている信徒のアナタ。ことに、幼児洗礼のアナタには、果たして、「神の御心によって召されてキリスト・イエスの信徒となった」との自覚はいかほど?「考えてみればそうだ」との自覚ならある?
実は、私たちの信者としての生活の質は、ひとえに、この自覚如何によると言っても過言ではない。その点では、司祭も信徒も同じと言える。つまり、自分のふがいなさや弱さ、アノ人ほど熱心ではないと言う自己卑下、普通?の信者であることに対する引け目や不足感などなど、信者として誇れない?自分を多く見ているとしたら、生活の質は、信者でない人々のそれとさして変わらない。
信者らしさの度合いを計ることが許されるのなら、ミサの出席率でなく、「主の御目にわたしは重んじられている」という自覚の深さで計られなければならない。そこまで言うのがはばかられるのであれば、せめて、「神様に目をかけて貰っている」との自覚はなければ・・・。それもはばかられるとすれば、「天変地異、世の中ヘン。でもやっぱり神様はいると思う」と言えるだけの自分なりの根拠は持たなければ・・・。信者らしさの度合いがディスカウントされていくのは否めないとしても。
そんな自覚から生まれる言動こそ、あなたを信者らしくさせることを忘れてはならない。いや、たとえ自分のダメさばかりが目につき、恥じることの方が多いとしても、「目をかけて貰っている」との自覚に立ち戻れるか。それどころではない、パウロの最後の挨拶が、アナタの挨拶となるようにとの主の願いにまで立ち戻れるか。
エーそんな厚かましいことやっていいの?身勝手な感じ!
そう反論したい気持ちに妥協することなく、この課題と取り組むのが信者。キバイモンソ。