闇から光へ・・・
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マタイ4,15-23
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、
暗闇に住む民は大きな光を見、死の影の地に住む者に光が差し込んだ。」
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って述べ伝え始められた。
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンドレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは猟師だった。イエスは、「私についてきなさい。人間をとる猟師にしよう」と言われた。二人は、直ぐに、網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイのお子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、船の中で網の手入れをしているのををご覧になると、彼らをお呼びになった。この二人も直ぐに、船と父親とを残してイエスに従った。イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、み国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気やわずらいを癒された。(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)
みほちゃんはおませな年少さん。通園バスでは前の席が大好きで、すでに誰かが座っていたら不機嫌になり、どんな説得も功を奏さず、抱え込んで乗せることもあった。そんなみほちゃんが、ひと悶着あった翌朝、前が空席にもかかわらず、何事もなく後ろの席に向かった。
前の日は、お母さんの説得にもかかわらず、みほちゃんは乗車拒否。とうとうお母さんが怒ってしまった。だから、家で何かあったに違いなかった。
推測だが、その日の午後、お母さんとみほちゃんとの真剣な話し合いがなされた。長い話し合いの結果、みほちゃんはついにお母さんのお話が分かり、前の席は毎日ではなく、お友達と交代で座ることに同意したのだった!
そう思ってみると、なるほど、みほちゃんが、前が空席なのに気づいてちょっと首をすくめていた理由が分かるような気がするのだ。「あ、まえのせきがあいている。すわりたい!でもがまん、がまん!おかあさんとやくそくしたし・・・。」そんな葛藤があったに違いない。
「みほね、ゆうちゃんにゆずってあげたの。」
「ワッすごいなあ。みほちゃん、強い心になったんだ!」
帰りのバスでみほちゃんが声をかけてきた。あれほど前の席にこだわっていたのに・・・。帰りのバスも前にこだわらなくなったみほちゃん。一体何が起こったのか。昨日と今日のこの大落差が意味する真実は一体・・・。
あ、また長くなってしまったが、テーマは「闇から光へ・・・」。実は、みほちゃんの劇的変化は、みほちゃんには悪いかもしれないが、まさに、闇から光へと導き出された体験だった。大げさかも知れないが、自分にこだわっているうちは、お友達に譲ってあげるなどということは心がつぶれるほど悲しいことでしかなかった。それが、お母さんやお父さんの絶妙な導きでヒョイとハードルを越えた。そして、お友達に譲ることはつらいけれども、おうちの人や園長先生も感激するほど素敵なことなんだということに気がついた。
これまで見えなかった世界が見えるようになった。そして、「そんなのぜったいイヤ!」と思っていたのに、我慢することが出来た新しい自分との出会い。それをドラマと呼ばずして何と呼ぼうか。そんな闇から光への進化。
そんな人知れず起こる日常のさまざまな人間関係の中での戦いと自分なりの気づきや解決。そんな日常の闇や無秩序からの解放、つまり光への招きこそイエスの使命、救いの業の中心。
「悔い改めよ」と呼びかけるイエスの思いは、みほちゃんのレベル?で答えるはずのもの。自分へのコダワリの現実の姿はなかなか見にくく、そのため手付かずのまま放置されているのが普通。「苛立ち・不平不満・批判・怒り・不安・自己弁護・・・・」の諸相を正直に眺める普段の孤独な練習が必要。無用なコダワリがいかに多いかに気づくはず。その時、「私についてきなさい」と呼びかけるイエスに身軽になってついていった弟子たちのレベルの生活が始まることになる。
もしあなたが信者であるなら、自由闊達、光の子としての毎日が期待されている。 もちろんイエスから・・・。