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弱さと無力さの再評価を!

作成者 admin最終変更日時 2006年03月30日 22時37分

年間第4主日ミサ説教音声(2005.1.30)

音声を聞くためにはReal Playerが必要です。無料でダウンロードして使うことが出来ます。

 今週の聖書

コリントの教会への第一の手紙1,26-31

兄弟たち、あなた方が召されたときのことを思い起こして見なさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選びました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げらている者を選ばれたのです。それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなた方はキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇るものは主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)


今週のポイント

ずいぶん昔のことになるが、ある宣教師から注意されたことがる。「あなたは、褒めてもらったときは、ありがとうと言ったほうがいいよ。」それまでの自分は、褒めてもらったときは、「イヤーたいしたことないです」が口癖だった。褒めてもらったからといって、素直に喜ぶのは子供っぽく、第一、日本人の謙譲の美徳という精神風土にもなじまない、と思っていたからだ。

 近頃は自分を売り込むのが文化になりつつたるかもしれないが、それでも、自分を卑下したがる謙譲の美徳はまだまだ健在と言ったほうがいい。だからと言って、日常生活に支障をきたしているわけではないが、自分に否定的感情を持つことは健全とは言いがたい。かといって、いつも胸を張って生きることが出来るわけではないが、少なくとも、神を信じるものにとっては信仰の土台が揺らぐことにもなりかねないので注意が必要。

 実は、今日のパウロの手紙は、コリントの教会で生じた分派争いを解消するために書かれたもの。そもそもの始まりは、信者たちがお互いに自分の狭い考えにこだわって他の人を受け入れることが出来なかったことによる。キリストに結ばれるということは、お互いの違いを乗り越えて一つになれるということに他ならない。

 そんなコリントの信者たちにパウロは、初心に帰るようにと呼びかける。キリストに結ばれたものは皆兄弟であって、学者か無学かということも、地位などの肩書きも、それでナンボノもんヤ、という平等の世界に入ったという認識こそ初心。

  確かに、信者であってもなくても、違いを認め合うということは容易なことではないが、特に、自分はダメだと思っているときには、周りに配慮したりするだけのゆとりもなく、孤立したがることは、誰もが体験すること。それが、実は、ねたみや自己嫌悪の温床であるばかりでなく、身近な人々との快活な共存共栄をも危うくすることになるから怖い。コリント教会の分裂はその例。

 パウロの勧告の際立ったところは、無力さにも意味があると説いているところだ。もっとも、無力さの意味と言われてもぴんと来ないが、たとえ自分は能力がないとか学問がないとか、立派な人間ではないとか卑下したいことが沢山あっても、「そんなアンタを、兄弟として生きていくことを赦したのはキリストご自身なんだから、あんたらが、どんな人間であろうと、それはキリストの問題。だから、価値があるとかないとか自分ばかりを見ないで、あんたらを呼んだキリストをこそ誇ったらどうか。」パウロの手紙を自分の言葉で翻訳すればこうなる。

 ないことを嘆くよりもあるものを感謝できるなら、あなたの人生の質が変わる。


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