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わたしが示す地とは・・・

作成者 admin最終変更日時 2006年03月30日 22時42分

四旬節第3主日ミサ説教音声(2005.2.20)

音声を聞くためにはReal Playerが必要です。無料でダウンロードして使うことが出来ます。 

今週の聖書

創世記12、1-4a

 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷父の家を離れて、
私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪うものを私は呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」アブラムは、主に言葉に従って旅立った。(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)


今週のポイントアブラムが受けた神の召しだし。ふるさとを離れて旅人となった。

 かつての宣教師たちが受けた神の召しだし。故国を離れて日本の地を踏み、やがて迫害をものともせずに使命を果たした。
 身近で見る宣教師たち。故国を離れ、われわれの仲間になり、信徒たちを愛し、元気で働いている。
 彼らが示された地はいずれも日本。はっきりしている。
 私が示された地は赴任先の小教区。これもはっきりしている。

しかし、それぞれの示された地はそれぞれ違う感じがする。もっとも、アブラムをはじめ、先の宣教師たちは、すでに御父の元に旅立ったのだから、最終的に示された地は父の元である。私たちも同じ地に向かって旅を続けているのは間違いないのだが、今言おうとしていることはそれではない。
 
 手がかりとなる言葉は三つ。生まれ故郷を離れた。私が示す地。旅立った。

 沢山の思い出の詰まった故郷。第二の故郷もある。長く生活したところ。友人知人の多い懐かしいところ。離れた後は、心がいつもそこに向かい、機会があれば帰りたくなる、そんな場所としての故郷。
 そんな風に、私の心が離れがたいと感じるのは、必ずしも場所に限らない。端的に言えば、ものの見方・考え方。生活習慣に食生活。などなど。一度身につけたものは、簡単に変えることは出来ないし、変えたいとも思わない。変える必要を感じないことのほうが多いと思う。特に、その人独自のものの見方・考え方はよほどのことでない限り変えることは不可能に近いと感じることは多い。

 問題はそこにある。いわゆる、さまざまなこだわりから離れるのは難しい。つまり、自由な心の持ち方という地。前向きな発想をするという地。自分の不幸を人のせいにしないという地。人の良さを素直に喜べるという地。どんなことにも感謝するという地。違いを認め合うことが出来るという地。その他、地球温暖化への個々人の取り組みというさまざまな地。などなど、数え上げるとキリがない、これらの地に向かって旅立つことの何と難しいことか。長年居続けた故郷を旅立つことの何と難しいことか。

 そんなわたしたちに、神様は今日も呼びかけられる。「あなたは生まれ故郷父の家を離れて、
私が示す地に行きなさい。」アブラムが受けた祝福の保証が私にもなされていると胸を張って言う勇気はないとしても、これらの地に向かって旅立つことで、私が毎日関わる身近な人々に、歩みだした分だけの成果を分かち合えるのではないかと思う。創世記の言い方をまねると「祝福の源となる」ということか。未完成というか、未到達のままでもその気になれば、神様のお使いとしての旅を堪能できる召しだされた人生に乾杯。その気になって旅立つことを回心とも言う。
 
 信者になったということはそんな地に向かって呼ばれたということに違いない。 


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