ナイルを打ったモーセの杖
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出エジプト記17、3-7
その日、民はのどが渇いて仕方ないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。私も子供たちも、家畜まで渇きで殺すためなのか。」
モーセは主に、「私はこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、私を石で撃ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持っていくがよい。見よ、私はホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことが出来る。」
モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でその通りにした。彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)
私は飢えの現実を知らない。飢えを体験したことがない。死ぬほどの渇きに遭遇したこともない。だから、津波やアフリカの内戦による飢えや渇きの現実には心が痛むとしても、からは遙か遠くにいるというのが実感だ。ましてや、数千年前のイスラエルの人々の渇きの状況を聞かされたとしても、それほど心は動かない。
それでも、たとえ、奴隷の体験がないとしても、自由になりたいと必死になって逃げた気持ちは一人の人間として分かるような気がする。そして、気がついてみたら、誰も助けてくれる人のいない孤独さと不安、後戻りの出来ない現実に愕然として、あれほど信頼していたモーセに対しても我慢ならなくなって叫びだした。これは、もう、数千年の時間を超えて、現実の人間模様ではないかとさえ思ってしまう。
これまで、順調な運営を続けていた会社の株が、ある日突然、無名の企業に買い占められてしまったときの人々の驚き、そして怒り。政治家まで発言を始め、みんなで寄ってたかって無名企業を批判する。連日、親子ほどに年の違う二人が入れ替わり立ち替わりテレビに登場して主張し合う。突然悪者にされた若い社長さんは「私は悪いことはしていない」とモーセの心境?
株のことやその取得手法には全く無知でも、第三者としては、若者に声援を送りたくなる。時代を先取りして歴史を突き動かそうとする人と、かたや、特別の感動もないまま従来通りの常識的な歴史の流れに身を任せていた人。そんな構図を感じるからだ。
話がそれたが、イスラエルの民から責め立てられたモーセとしては、まさに、飼い犬に手を噛まれた心境ではなかったのか。何よりも、自分の意志でこんなことをやっているのではない。「神様よ、そもそもアンタが・・・」モーセは手にした杖を振り上げて叫んだ。そのとき、モーセははっと気がついたのだった。手にしている杖が、ナイルを打って川の水を血に変えたあの杖だったことを。そして、モーセは、顔を輝かせながら、力強く目の前の岩を打った。案の定、霊験あらたか。民は生き延びた。モーセは不信の民を責める資格のない自分を恥じながら、その場所を「マサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。」
たかが一本の杖。されど一本の杖。モーセは改めて、一本の杖に託された神様の思いの深さに感じ入ったことだろう。それに引き替え自分の信仰がいかに鈍かったかに恥じ入ったことだろう。杖こそ神の恵みのしるしだったのに!恵みは神の視線を感じ、神の視線を共有ることだったのに!
モーセは、叫びを上げながら、必死の祈りによってわれに立ち返ることが出来た。そして、民全体が救われた。信者の本性は、まず神に叫び、そして冷静になり、そして神の下さった過去の恵みに気づき、そして現実を受け取り、人を許す力を取り戻す。そして、自分も周りも救われていく。平静さを取り戻していく。希望的になっていく。これが神の視線を共有するということ。
「あなたは無名。だが、あなたもナイルを打った杖を手にしているよ」モーセがマサとメリバから呼ばわった。渡る世間は鬼ばかり?手ごわい世の力の前でも、最強の杖イエスと共に生き延びることが保障されている。