揺らいでもぶれない神の選び
四旬節第4主日ミサ説教音声(2005.3.6)
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サムエル上16、1b/6-7/10-13a
主はサムエルに言われた。「角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。私はその息子たちの中に、王となるべき者を見出した。
彼らがやってくると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれるものだ、と思った。しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって彼を連れてこさせてください。そこ子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色がよく、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)
世界の大富豪の一人に数えられた人が逮捕。しかも、若いころに、「60代70代になってダメになる人がいるが・・・」と人事のように言ったことがわが身に実現。お金の計算は出来なくても、「オカシインジャナイカ」ぐらいは僕でも分かる?のに、70代にもなってどうして?
ある人が、いみじくも言った。「彼は裸の王様だった!」
考えてみると、大富豪でなくとも、大なり小なり、所詮、人間はみな裸の王様ではないのか。
楽しいエピソードを沢山残して、昨年神様のもとに旅立った知り合いの奥さんは、エネルギッシュで明るく、周りをもいつも明るく、元気にする人だった。ある日、彼女は、バスを待つ人の列の中にいた。後ろの人が、気の毒そうに声をかけた。「奥さん、・・・着ていらっしゃるもの、もしかして・・・裏・・・」彼女は、先日買ったばかりのシルクの洋服に目をやった。なんと、彼女は裏返しに着ていたのだった。
初めて着るシルクの洋服、誰か、「素敵!」と言ってくれないかしら。そんな気持ちで、一日、心うきうき町を歩き回っていた自分を思い、顔から火が出るほど恥ずかしかったと、快活に笑った。
笑いで済ますことができる程度のことは、第三者には大いに歓迎というところだが、自分のことになると笑いでは済まされなくなる。つまり、自分がやっていることが、第三者にはどんな風に映っているのかなかなか分かりにくい。
自分のあの一言がどれほど相手にグさっと来たか。何気なく言ったことが嫌味に聞こえた。単純にオヤッと驚いただけなのに悪い印象を与えた。親切が迷惑だった。自分は気に入ったファッションを裏で人が笑っていた。などなど。
こうしたことは、後で第三者から聞かされることが殆ど。しょっちゅうあるわけではないとしても、誰でも一度や二度は体験したことがあるに違いない。
いずれにしろ、いずれの場合も、裸の王様の「自分バージョン」と言える。
前置きが長すぎた。
ともかく、そんな、どこかチグハグで、分かっているようで、トンチンカンなことをしでかす人間を神様は、何故か心に止め、ご自分の御用のために働いてもらいと思って選ばれた。大富豪の話ではなく、このボクや洗礼の恵みに浴した多くの信者たちを・・・。
人はともかく、自分の弱さを見るにつけ、神様の誤算も相当なもんだと思うことは多い。しかし、さらに考えてみると、人間が誤算としか見ないことでも、神様から見れば、誤算のうちに入らないらしいとも思えてくる。そう思わないと自分のこれまでの歩みにつじつまを合わすことが出来なくなるからだが・・・。
いや、むしろ、端的に言って、神様の選びはだから面白いと言ったほうがいい。
何故か?
裸の王様を演じた自分に気づき、そんな自分を恥じながらも、絶望することなく、素直に受容し、顔を上げて再度出発することが出来る根拠がそこにあるからだ。あの優秀な友人ではなく、このボクを司祭にすることで、神様は、やりがいすら感じているかもしれない、と思うことすらある。なぜなら、同じ過ちを何度も繰り返し、気づくのも遅く、時間がかかるボクに、ハラハラしながらもチャレンジを続けておられるのは神様のほうだからだ。そのチャレンジこそ、神様のお楽しみではないのか?神様の思う壺にはまったら、ヤッターと歓声を上げ、当てが外れたときは、シマッタ!と舌打ちして、次の仕掛けを考える。神様は、ボクとのゲームをやめない。そこに救いがある。
こう考えると、信仰すること、司祭として生きることは楽しい?
神に選ばれた少年ダビデは権力の座についたとき、部下の奥さんを横取りするために部下を戦死させるという、とんでもないことをやってしまった。神様の大誤算?しかし、それでも、ダビデに対する神様の思いはいささかもぶれることはなかった。150篇にも上る詩篇の作者はダビデということになっている。ダビデも神様とのゲームに気がついた人の一人。
神様は、何があってもあなたとの人生ゲームを辞めたいなどと、これっぽちも思われたことはない。神様とのゲームをもっとエンジョイしてもいい。復活は近いのだから・・・。