命への帰還
四旬節第5主日ミサ説教音声(2005.3.16)
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エゼキエル37,12-14
それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。
わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。
また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。(日本聖書協会『聖書 新共同訳』より)
エゼキエルは、紀元前6世紀のバビロン捕囚(587-538年)で活躍した預言者。バビロンと言えば今のイラク。エゼキエルは、チグリス川の畔で故郷を偲んで泣くイスラエルの民(詩篇137)を励ましたという。
そんな状況下でエゼキエルが見た幻。エゼキエルがおびただしい数の骨に向かって主から受けたことばをかけると、骨と骨が、「カタカタ」と乾いた音を立てながらくっついて、おびただしい数の人間の集団が現れた。昔、グループサウンズのどのグループか忘れたが、「ドライーボーン・ドライボーン(乾いた骨)・・・」と歌っていたのを思い出す。それはともかく、今日の箇所はその続き。
本文の預言どおり、イスラエルの民は一世代を経た後、エルサレム帰還を果たすことになる。乾ききったおびただしい人骨は絶望のの淵に沈むイスラエルの民の象徴か。
かつて、日本は、お隣韓国から強制連行を繰り返し、まさに、故国を失う経験を人々に強いた。創氏改名を強制し、民族の日本化を図った。人々は先祖の墓に詣でて、自分たちの時代に先祖に申しわけの立たないことをした言ってと泣いて詫びたのだという。日本がやったことは、現代のバビロン捕囚と言えるかもしれない。
そんな、国を失い、一国の民としてのアイデンティティーを失う体験は僕にはないので、この箇所を語る資格はないようにも思うが、この箇所に心引かれたのは、自分なりに、墓を開いてもらった体験があると思うからだ。もっとも、墓というのは、辛いこととか、希望がもてないでいたとかという程度のことなので、少し大袈裟かとはおもうが・・・。
ともあれ、「わたしが・・・霊を吹き込むと、お前たちは生きる」という約束は力強く頼もしい。実際のところ、信者であれば、これまで、主に命の息吹を吹き込まれたことで、顔をあげて前進することが出来たと思えることは多いはずだ。そして、今の自分があるのは、全て、主の息吹によって再生された結果であることは明白であるにもかかわらず、現実の厳しさに直面すると、直ぐにたじろいでしまう。そんな自分に、愛想を尽かすことなく、生かし続けてくださる主の息吹の力こそ愛そのものと言わざるをえない。そのことにも同意できると思う。
イスラエルの民や韓国の人々の帰還の喜びにはかなわないとしても、それぞれの人生で、ひっそりと果たす帰還の喜びこそ、バラバラになった自分自身を取り戻す再生の喜びであり、何よりも、主との親密さを倍加させる唯一の方程式。こうして、彷徨(さまよ)ったあげくに、いつも、「自分の土地に住まわせ」てもらえることを保証されている信者の生活に乾杯。
おっと、まだ四旬節第五主日。乾杯には早いが、ま、いいか。