復活祭、輝く命の祝日
復活の主日ミサ説教音声(2005.3.27)
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使徒パウロのコロサイの教会への手紙3,1-4
さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。
あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。
あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)
捲土重来(けんどじゅうらい)
(「捲土」は土煙をまき上げること。勢いのものすごいさま)一度失敗した者が、再び勢力を盛り返して来ること。一度負けた者が勢力を盛り返して攻め寄せること。
心機一転
ある事をきっかけに、気持がすっかり変わること。
新規蒔直(しんきまきなおし)
(形動)それまでのいきさつや気持を捨てて、物事を新しくやりなおすこと。
以上、「国語大辞典(新装版)小学館 1988」より
復活ということで思い出された言葉は上記の三つ。そう言えば、敗者復活戦という言い方もする。もっと他にもあるかも知れないが・・・。
こうした言葉には、失敗しようが負けて惨めな思いをしようが、それでもくじけずに前進しようとする気迫が感じられていい。そうは言っても、現実には意気消沈することの方が多いように思う。たとえそうであったとしても、復活を連想させる言葉がいくつも残されていることからして、「前進したい、生き続けたい。」そんな輝く人生を歩みたい。それはみんなの憧れだと言えるかも知れない。
その憧れが、時代を超えた人としての証であるとするなら、イエスの復活は、その頂点にあると言っていい。というのは、私たちの深い憧れの前に立ちはだかる手強い現実である死に打ち勝ったからだ。もっとも、そんな理屈は、復活を信じない人々にとっては無意味かも知れないが・・・・。
しかし、私たちの「前進したい、生き続けたい」という憧れを阻むのは、実は、死だけではない。拒絶は苦みを伴い、平常心を失い、敵対心を生み、大きな悲劇に至ることもある。そういう、斬ったはったの修羅場の人生は、たとえ、体は生きていても、人として輝き、周囲をも輝かせる十全ないのちを生きているとは言いがたい。指導者たちの拒絶が極まったところにイエスの死があることを思うとき、イエスの十字架上での最後の祈りは、信者、未信者(未来の信者?)を問わず、傾聴に値する。もっとも、連日、新聞テレビを賑わしている企業争奪戦の当事者たちに聞かせたら一笑に付されるだけだろうが・・・。
「父よ、彼らをお許し下さい。自分が何をしているか知らないからです。」(ルカ23,34)
不条理の処刑を甘んじ受けたイエスの偉大さは、その強靱な意志力にあるのではない。不条理を強いる人々のために赦しを願う高邁さこそ、イエスの命の偉大さであり、永遠に輝く不条理への勝利。
野生の動物たちの親子愛から、人間の親の愛に至るまで、つまり、どんな命にしろ、命本来の姿は、己を無にして輝く、ということは本当だと思う。イエスの命はそれさえも超えて輝き続ける。究極の拒絶にも弱まることのなかったイエスの命の輝き。私たちの憧れを満たす命の輝き。そして、私たちの人間関係をより良好なものにするキーワードを秘めたイエスの命の輝き。パウロの今日の本文の意図が読めてきそうな感じがするのだが・・・。
愛する者のために身命をなげうつ愛を偉大な常識と呼ぶなら、愛を拒み敵視する人々に刃を返すのでなく、父なる神に許しを乞う姿を偉大な非常識ということができるかも知れない。
ともあれ、今日は主の復活。死さえもその輝きを奪えなかったイエスの永遠に輝く命を祝う日。そして、そんな命に呼ばれて「キリストと共に復活させられた」信者の命の輝きを願い、祝う日。さらに、そんな命に憧れる全ての人の命を称える日。