心が燃える復活の命
復活の主日ミサ説教音声(2005.4.10)
音声を聞くためにはReal Playerが必要です。無料でダウンロードして使うことが出来ます。
ルカによる福音24,13-35
ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。
話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
(略)
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)
今日の福音の本文は、かなり省略したが、大好きな「エマオへの弟子たち」の箇所。
同行の旅人がイエスだとは気がつかず話し続けた二人の弟子。一宿一飯、無理に招いた食事の席。なんと、客人のはずが、「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて」渡した。二人はビックリ仰天。最後の晩餐で見たイエスの仕草そのまんま。「せんせ・・・」思わず声を上げて席を立ったら、イエスはドロン。しかし、ふと気づいた胸の高鳴り。道中、戸惑いながらも、つい引き込まれた旅人の一言一言。そして、その時の心の高鳴りをハッキリと思い出した。期せずして、二人はきびすを返し、忌まわしい記憶のエルサレムに引き返した。
忘れようにも忘れることの出来ない、心も凍る、悪夢のようなあのエルサレムでの恐怖の体験は、もはやトラウマ(心の傷)としての効力を失なっていた。つまり、時が経てば経つほど、イエス受難とそれをめぐる弟子たちの辛い思い出はエマオへの途上の出来事や、シモンの証言や他の弟子たちからの報告など、そんなイエス復活の話題に取って代わられた。
どんな体験にしろ、それが辛ければ辛いほど、弟子たちと共に、あの主の受難とそれを目撃した弟子たちの恐怖と失望に胸つぶれた体験に重ね合わせなければならない。なぜなら、私たちの新しい一歩のひな形がそこにあるからだ。つまり、私たちの、復活への道のりは、先ず、主と弟子たちの復活への道のりから始まったからだ。
世の人々は、努力し、勉励して新たな境地を開くかもしれないが、キリスト信者はちがう。ペトロが今日の手紙で言っているように、「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」(1ペトロ1,18-19)つまり、復活の信仰は、金銀(人間的なわざ)で手に入れたものではなく、キリストご自身のわざの結果。それを恵みと言うが・・・。
復活の信仰が恵みだと信じているなら恵みは味わってこそありがたいものになる。味わう?今、あなたが何らかの問題を抱えているなら、あのエマオへの弟子たちが復活の主に出会った一部始終を何度も何度も読んで味わうことだ。弟子たちの心の高鳴りを共有しようとすることだ。出来るだけ、想像をたくましくして、弟子たちの輝く顔までも読みとろうとする。あなたもその場面に居合わせているかのように・・・。そんな祈りを続けるなら、あなたにも弟子たちの心の高鳴りと輝く顔が蘇ることだろう。
何とか難局を乗り越えようと努力し、祈りながら頑張っているにもかかわらず、現状を打開することが出来ないでいるとするなら、あなたは、自分の問題解決にイエスを引っ張り出しているだけではないのか。祈ってるとしてもおねだりの祈りだけかも知れない。祈りは、聞くことから始まることを忘れてはいけない。打算的な信仰から離れて、問題解決ばかりを目指す御利益信仰から離れて、イエスや弟子たちの思いを共有しようとする努力こそ、立ちはだかる問題を乗り越える最短の道であることを体験しなければならない。復活の信仰とは主の受難と復活、弟子たちの復活の主との出会いの体験を味わう信仰のこと。
イエスはゲッセマネの祈りに三名の弟子を同行させた。自分に寄り添ってくれる人が欲しかったのだ。祈り、祈りと言うが、あなたはイエスに寄り添う祈りをどれだけしているか?
マアマア、そんなに意気ガランでもよろしい。剣を振り上げたペトロを制したイエスの言葉が聞こえたような土曜の昼下がり。