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十字架こそ羊の門

作成者 admin最終変更日時 2006年03月30日 23時00分

復活節第4主日ミサ説教音声(2005.4.17)

音声を聞くためにはReal Playerが必要です。無料でダウンロードして使うことが出来ます。 

今週の聖書

ペトロの手紙(Ⅰ)2章20b-25

 しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。
あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」

ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。

そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。
あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。
(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)


今週のポイント あつい心で主の受難を記念した聖週間。喉元過ぎれば熱さを忘れ。あつい心もどこかに失せ、忙しない毎日に自分のことにかまけてしまう毎日。そして、どうかすれば十字架の神秘から離れ、些細なことにも不平、不満が口をついて出る。そんな私たち?に、ペトロは十字架のイエスを指し示す。

 「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。」

 そんな主の復活をお祝いしたはずなのに、ののしり返すことはしないまでも、そして人を脅したりするほど凶悪ではないとしても、キツイ言葉での言い返し、いや、言い返さないまでも内心でのつぶやきや批判に怒りなどなど、イエスの十字架の姿とはほど遠い。

 「私は門である。私を通って入るものは救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」今日の福音の鍵となる言葉だ。イエスにとって十字架は御父のもとに帰る門であったことを思うと、ここで言われている門は、必ずしも教会の門であるとは限らない。洗礼という門でもない。信じるという門では漠然としすぎている。

 正義が否定されても逆らうことなく、「正しくお裁きになる方にお任せにな」ってご自分を無とされた十字架のイエスに立ち戻らなければ通れない門。洗礼を受け、教会の門をくぐり、信者として生きているつもりでも、イエスの門をくぐっていない現実は多い。イエスが体を張って守った門は、聖週間以外は人目につきにくく、素通りされてしまいがちではないのか。それでも何も言われないイエスは、二千年前と変わらない。無視されるのになれてしまったから?そうではない。

 「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。」

 門を通る極意がここにある、とペトロは言う。
 もっとも、あなたが普通の信者なら、大騒ぎと修羅場の果てにたどり着く門ではあるが・・・。あなたが未信者(未来の信者)なら、「逆境をバネにして・・・」「逆境がチャンス」「過去は過去、未来志向で・・・」などなど、そんな言葉で難局を乗り切ることになると思う。そんなあなたも、実は、イエスと一緒に門をくぐり、ふくよかな緑の牧草を見つけた一人ということになる。

 いずれにしろ、門への歩みこそ信者の道と心得て、何とか、毎日、たどり着きたい門ではある。 


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