それでも教会を愛する
復活節第4主日ミサ説教音声(2005.4.17)
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使徒たちの宣教6章1-7節
そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。
そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。
(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)
聖書には、人間味を感じて親しみを覚えるエピソードがいろいろなページに見られるが、今日の本文は、教会草創期の出来事だけに、ことのほか感じるところ大。
信者として日が浅いせいもあるとは思うが、信者になったことで、全てが全く新しくなるというのではないことが分かる。皆が兄弟姉妹ということは、頭では分っていても、そうそう簡単なことではない。中国の反日運動を見るまでもなく、過去を引きずり、出自にこだわり、社会的偏見のマスクをかぶり、違いを認め合うことが何と難しいことか。
新しいパパ様が、ヨハネ・パウロ二世の側近中の側近だったというので、つまり、保守的だというのでガッカリした人々は多かったらしい。しかも、かつてナチスの少年団?に属していたことを問題にする人々が出てくるとの予測もある。先を急ぐ人々には、後ろ向きな人選だった感じがするのかも知れない。もっとも、人選というより、神選の方が正しいとは思うが・・・。
今日の第一朗読の記事を読むと、教会に問題が発生したときに、使徒たちが素直に非を認めて、「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」と言って自らの行動を促し、単なる批判や説教で終わらなかったことは注目に値する。
二年ほど前に、思いがけない集まりに参加したとき、教会の中に渦巻く批判の声の大きさに驚いた。それが日本の教会の現実に対する正直な感想であることは分るが、そんな批判の嵐の中で、「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」との力強い声明が打ち出されなかったのは寂しかった。もしかしたら、日本の教会は、そんな声を上げるほど成熟していないのかも知れないとも思えて寂しさは倍加した。もっとも、これは、売り言葉に買い言葉のレベルで言っているだけで、日本の教会が草の根レベルで大人として生きている事実を沢山知っている。
ともあれ、どんなことにしろ、人間のすることで批判の対象にならないものなど何一つない。批判が教会を変えることもあるとは思う。だから、批判は必要だとも思う。しかし、それよりも大切なことは、「そうだった。私たちが何でもかんでもしようとしたから大事なことを見落としていた。私たちがしなくてもいいことは他の人に任せよう。私たちは祈りと宣教に・・・」という気づきの早さこそが教会を新たにしていくのではないかと思うのだが・・・。
教会は変わるべきだと言って声を上げるとき、自分を教会の中に置くか外に置くかで事態は大きく変わることも心に止めておきたい。ルターは教会を出て改革を推進し、アッシジの聖フランシスコは、問題だらけの教会に留まりながら教会を改革した。
人への期待や要求が大きければ大きいほど、失望も大きいことを思いながら、その矛先を自分に向ける勇気こそ教会は必要としているのではないか。それが、傷ついた教会をいたわり、愛することではないのか。もっとも、傷ついているとはいっても、どんなに批判の嵐にさらされようともそうそう簡単に倒れないのがキリストの教会だから、一人一人は、そんな教会に寄り添いながら、打たれ強い信者になればいいのかも知れないとも思う。
打たれ強い信者?今日の使徒たちのように、批判されても、逆境に会っても、逆らうことなく自らの生き方を素直に、前向きに修正できる信者のこと。