聖霊が欲しい?
復活節第6主日ミサ説教音声(2005.5.1)
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使徒言行録8章5-8:14-17節
フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。
町の人々は大変喜んだ。
エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)
今日の第一朗読に登場するフィリポの活躍はめざましい。手に負えない重病患者を癒したり、汚れた霊の人々を正気に戻したり・・・。サマリヤの町はテンヤワンヤの大騒ぎだったらしい。降って湧いたような救世主の到来に町中大喜びだったという。
それを聞きつけたほかの使徒たちは、サマリアに人を送って、フィリッポの援護にあたり、お陰で、サマリアの人々も聖霊を受けたという。その人々もまた、フィリポのように、大活躍をすることになったのかも知れない。
司祭が手を述べると、難問奇問即座に解決。順風満帆、家運隆盛。お陰で、司祭は、食事する暇もなく、嬉しい悲鳴。・・・そんなことあるはずがない。妄想に過ぎない。自嘲的な声に、一人苦笑するしかない。
それどころか、司祭のなり手がなく、教会はピンチ。そんな現実を思うと、フィリポの活躍は、羨ましいような、妬ましいような・・・。あまりにも、人ごと過ぎて、「不公平じゃあありませんか!」と文句すら言いたくなる。
聖書のエピソードは概して、私たちの現実からはかけ離れていると感じることは多い。特に、この霊とか聖霊とかの話しになると、殆どの人はついていけないのではないか。もちろん自分も含めての話しだが・・・。
「皆さんは、急須にお湯を入れるとき、注ぎ口から入れたりはしない。ふたを取って入れる。皆さんの信仰は、急須にお湯を入れるのに注ぎ口から入れようとしている人のようです。ふたを取って聖霊というお湯をたっぷり入れて貰いなさい。」
十数年も前のことだが、どこかで、誰かの黙想会の時に聞いた講話の一節。急須の話しが印象に残っていて忘れない。心を開きなさいということか、こだわりを捨てなさいということか、自分を無にしなさいということか。いずれにしろ、「神様は、たっぷり注ぎたいと思っていらっしゃるのに、みんなは、小さな注ぎ口しか向けようとしない」という指摘だったと思う。
「フィリポを突き動かした聖霊は自分にはない」とヒガンデいるとしたら、注ぎ口しか向けていないので取りこぼし、いや「もらいこぼし」が多くて、実感としては、「ない」と感じるのかも知れない。第一、洗礼の時に、聖霊も頂いているはずだし、堅信で更に強化されてもいる。
そんなことを思うと、問題は神様の方ではなく、私たちの側の問題であって、戸惑っているのは私たちではなく、神様の方らしい。「たっぷり注いであげる!」と腕まくりしておられるのに、恐る恐る、上目遣いに、しかも急須の口じゃあ、さすがの神様もやりにくかろう、とも思う。
(ここまで書いたところで、「お恵みを」の声で中断。千円差し出したら「あと500円」ときた。「ゴメンナサイ。コレで勘弁して。」懇願するボクに、「お願いです。あと500円!」「ゴメン、ゴメン、勘弁して!」500円値切ったことで悪事をはたらいたような気分になりながら、逃げるように中へ。・・・ヤレヤレ、かっこいいことを言おうとするとすぐコレだ。)
頭では何とか分ろうとしている自分に、今日の福音で、イエスは、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(ヨハネ14,16)と、援軍を約束される。それでも、注ぎ口しか向けられない自分。
そんな自分に、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」(ヨハネ14,18)「えっ!」初めてボクの心が動いたようだった。旅ガラスに500円を値切った自分でも?!
取りかかったふたが、思いがけない来客で、ガチャンと閉まった感じがした。一筋縄じゃいかんゾ。またしても思い知らされた。やり直し!旅ガラスが冷笑した。