円満な人格三位一体の神
三位一体の主日ミサ説教音声(2005.5.22)
音声を聞くためにはReal Playerが必要です。無料でダウンロードして使うことが出来ます。
出エジプト記34・4b-6、8-9
モーセは朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ちた者。」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して言った。「主よ、もしご好意を示して下さいますならば、主よ、私たちの中にあって進んで下さい。確かにかたくなな民ですが、私たちの罪と過ちを赦し、私たちをあなたの嗣業(しぎょう)として受け入れて下さい。」(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)
シナイ山と聞けば、97年、重症のヘルニアから手術を免れて解放された3ヶ月後の登山が蘇る。粗末なホテルを深夜に起きだし、頂上での日の出に間に合うため、確か、午前二時頃、ひっそりと寝静まった修道院の側を、修道士達の睡眠の邪魔にならないようにと、はやる気持ちを抑え、息を潜めての登頂開始。月明かりだけが頼りの三時間。途中、登山客を待つラクダ休憩所もあって、それでも休まずに歩き続けた。雲に遮られての日の出ではあったが、赤く染まった空と朝日に映えて、次第に全貌を露わにする累々と連なる岩肌の峰、峰・・・。飽きることなく眺め続けた。モーセと神のドラマを思いながら・・・。
モーセも午前二時頃から上りはじめたのかもしれない。そして、日の出と共に神をたたえたに違いない。二枚の石の板を持って立ったのがどこかは分からないが、きっと頂上だったのではないか。遮るものが全くない、深く澄んだ空を見上げると感じた。
しかし、明るくなった2285mの頂上は、物見遊山の観光客で溢れ、とてもモーセを偲ぶ雰囲気ではなかったが・・・。そう言うボクもビデカメラを回し続けたのだから大きな顔は出来ない。それでもみんなで高らかに朝の祈りを唱えた。
ところで、「主よ、私たちの中にあって進んで下さい。確かにかたくなな民ですが、私たちの罪と過ちを赦し、私たちをあなたの嗣業(しぎょう)として受け入れて下さい」というモーセの祈りの意味は何か。
これまで、何度となく自分を手こずらせた民。この際、神さまご自身に来て貰わないと、この先どうなること分かったものではない。果たして、砂漠を越えることが出来るものかもきわめて怪しい。それより、自分の身が持ちそうにない。追いつめられたモーセは、自分を呼んだ神に願うしかなかった。
こんな風に人ごととして読んでもあまり意味はない。
実は、モーセの苦悩は、僕自身の苦悩。自分自身を御するのが何と難しいことか。身につけた生活習慣。身の回りのことから気持ちの持ち方、物事の見方、感じ方などなど複雑な問題まで、もう少し整理して、すっきりキッパリ身軽に、そして周りの人とも円満に、と思ってもそうは問屋が卸さない。惰性というか、何となく間に合っているというか、これが自分なんだという開き直りというか、とにかくモーセほどの切実感が湧かないのが普通。
そんな、未整理のままで雑然とした自分自身からスッと抜け出せないでいる自分の現実こそ、モーセがイスラエルの民に見た「かたくなな民」の現実であった。見捨てたはずのエジプトに戻りたがっている民。あれほど、脱出を願っていたのに!そんな矛盾した有様こそボクの現実。
ところで今日は三位一体の主日。
父と子と聖霊。お互いに円熟した人格。そしてお互いに満たし合う人格。で、三位一体は、「円満な人格」の神。私たちの憧れるそんな人格であるお方の山に登る日。