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信仰のゆがみを正す

作成者 admin最終変更日時 2006年03月31日 10時38分

年間第10主日のミサ説教音声(2005.6.5)

音声を聞くためにはReal Playerが必要です。無料でダウンロードして使うことが出来ます。 

今週の聖書

マタイ9,9-13

 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。

 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。

 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)

今週のポイント日本を代表する聖書学者雨宮神父さんの記事を読んでいて、イスラエルの「民のゆがみに気づかせ、・・・」という下りに目がとまった。そして、「信仰のゆがみを正す」というタイトルになった。まっすぐでない、ゆがみ。ピサの斜塔は名物になっているが、倒れやしないかと人々を不安がらせる。ゆがんだものを見るのは落ち着かない。

目に見えるものは手直しも可能かも知れないが、ゆがんだ信仰は難しい。第一、自分の信仰のどこがゆがんでいるのか識別することすらしばしば難しい。

 ある町の教会。この数年、若い家庭が増えたので、ミサには子供たちが目立つようになった。主任司祭は目を細めるが、「ミサがうるさくなった」と嘆く声が聞こえるようになった。ミサは静にあずかりたいというのは分るとしても、「子供はどうしてあんあんあんあん泣くんだろう。神様を呼んでいるんだよ」という詩人八木重吉の心境にみんながなればいいのにと思った。
 あの頃2才のチーちゃんは、なぜかミサになると一人で盛り上がり、会衆の前面、祭壇のまん前でデングリ返りをよくやった。みんなから「イエスさまのチアガール」と呼ばれて得意満面だった。眉をひそめる人は皆無だったのに、町の教会ではそうはいかないのだろうか。
 チーちゃんのような活動?を認めようとしない教会というか、信者の集まりは、どこかゆがんでいやしないか。微妙な問題ではあるが・・・。

ゆがみは、何も信徒だけの問題ではない。責任ある位置にいればいるだけゆがみは見えにくくなるように思う。福音の教えに忠実かどうかよりも、「立場上」、「責任上」が切り札となる場合は少なくないのではないか。そのように、個人のレベルを超えた信仰の姿は決して生やさしくない。そんな悩みは、教会も昔から体験済みのようで、そんな時の妙案を残してくれた。どっちに転んでも、誰かが泣くことになるという場合、つまり、どちらかを選ばなければならないときは、「より小さい悪を選びなさい。」苦肉の策としか言いようがないが、苦労が偲ばれる。自分にも経験があるので笑えないが、後は、神様に委ねて、「なるようにしかならない」と腹をくくるしかない。

ところで、信仰のゆがみの問題は、町の教会の問題のような、もっと日常的な事柄をめぐっての方が深刻のように思う。苛立ち、不平、不満など、否定的感情に支配されるときは、自分のゆがみを見るチャンス。しかし、「そんなの常識!」、「人間だから当り前」「ミサは静であるベキ」などが顔を出してくるので、よほど正直に、妥協することなく、自分のありのままを見る練習をしないと、ゆがみなど見えてこない。見えたとしても、せいぜい相手のゆがみだけ。熱心がアダになることも・・・。

今日の福音が指摘しているのはそんなことではないのか。イエスのゆがみを指摘した人々に対するイエスの答えは厳しい。「行って学びなさい。」どっちがゆがんでいるのか、「もっと練習してから出直してこい。」イエスの叱責を聞き逃すとソンをするのはあなた。


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