神さまの相談に乗りたい
年間第11主日のミサ説教音声(2005.6.12)
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出エジプト記19:2-6a
彼らはレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に着き、荒れ野に天幕を張った。イスラエルは、そこで、山に向かって宿営した。
モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。
「ヤコブの家にこのように語り
イスラエルの人々に告げなさい。
あなたたちは見た
わたしがエジプト人にしたこと
また、あなたたちを鷲の翼に乗せて
わたしのもとに連れて来たことを。
今、もしわたしの声に聞き従い
わたしの契約を守るならば
あなたたちはすべての民の間にあって
わたしの宝となる。
世界はすべてわたしのものである。
あなたたちは、わたしにとって
祭司の王国、聖なる国民となる。 」
(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)
「実は、折り入ってお願いしたいことがあります。」そう言われると、誰でも、緊張し、一体どんなことかと身構えることになる。
もし、友達であれば、少々の難題であっても、「アンタのことだから・・・」と何とか期待に応えようと努力するし、まして、お世話になっている人なら、この時とばかりに、恩返しのつもりで「分りました」と気合いが入るに違いない。
しかし、もし、特に後者の場合、折り入っての頼み事に、「他のことならともかく、こればかりは勘弁してください」と断ったとすれば、恩返しに条件を付けたということになり、誠実な態度とは言い難い。確かに無理なこともあるとは言え、それでも、出来る限りの努力をして、恩に報いようとするのが人の道ではないか。
もし、それすらもなく、全く取り合って貰えなかったとすれば、頼み事をした人は面目をつぶされたことになり、ムッとするどころか、「恩知らず!」と深く失望するに違いない。
どうして、長々と、もしもの話しをしたかというと、今日の出エジプト記の本文を読んでみたら、モーセに語られた神の言葉が次のように聞こえたからだ。
ヤコブの家、イスラエルのみんなに聞いてもらいたいことがるのだ。
他でもないことだが、私がみんなをエジプトから救い出すためにどんなことをしたかはよく分っていると思う。そこでだ、折角ここまで逃れ、自由の身になったのだから、今後は、モーセと共に私との契約をしっかり守って生きて欲しい。もし、みんながそうしてくれたらどんなにか嬉しいことか。それだけではない。実は、私には大きな夢があるのだ。もちろん、世界は全て私のもだが、そうは言っても、まだ多くの民は私を知らない。そこで、みんなにお願いなんだが、私と他の民だみの仲介者となって、私のことをいい風に話して貰いたいのだ。あなたがたと同じように世界のみんなが私を信じるようになったら・・・。それが私の夢なのだよ。どうだね、私の祭司となってずっと私のために働いてはくれまいか。
神との契約と言えば、どこか人ごとのような感じを否めない。恩着せがましくもなく、かといって、どっちでもいいという安易さでもなく、謹厳実直、イヤとは言えないお人柄。それがボクの神のイメージだ。だから、契約とは神様が期待を持って持ちかけた相談のことだ。自分の側から言えば、たまたま通りかかっただけなのに声をかけて貰った。それが、ボクの人生を変えた、ということになる。
ヤコブの家、イスラエルの人々とは、他でもない、洗礼を受けた信者のことだ。幼児洗礼の子供たちに要求するのは、少し酷だとしても、一度は、明確に「ハイ」と答えて「神の祭司」の道を歩み出した大人たちの責任は大きい。神の実直さには実直な応答がふさわしい。しかし、神との契約履行(信者として生きる)には、いつでも、「自分なりに」という条件が付く。背伸びするのでもなく、人まねでもなく、自分なりに。しかし、実直に、そして誠実に。祭司であるあなたへの神の期待は大きい。