貧しい人、エレミヤの苦悩とは・・・
年間第12主日のミサ説教音声(2005.6.19)
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エレミア20:10-13
わたしには聞こえています 多くの人の非難が。 「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。 「共に彼を弾劾しよう」と。 わたしの味方だった者も皆 わたしがつまずくのを待ち構えている。 「彼は惑わされて,
我々は勝つことができる。 彼に復讐してやろう」と。
しかし主は、恐るべき勇士としてわたしと共にいます。 それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき、勝つことを得ず、成功することなく甚だしく辱めを受ける。それは忘れられることのないとこしえの恥辱である。
万軍の主よ、正義をもって人のはらわたと心を究め見抜かれる方よ。 わたしに見させてください、あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明け、お任せします。
主に向かって歌い、主を賛美せよ。 主は貧しい人の魂を 悪事を謀る者の手から助け出される。
(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)
一体、エレミヤに何があったというのか。四面楚歌。そんなただなならぬ状況を思わせるエレミヤの苦悩とは。
エレミヤ第一章、特に13節以降を読むと分かる。当時のユダ王国の腐敗ぶりは目に余ったらしい。変質したヤーウェ信仰。頑迷な指導者達によって若いエレミヤの糾弾は無視され、ついには命までも狙われるようになる。エレミヤのストレスは高まり、いやがる自分を呼んだ神に怒りをぶちまけるような激しい祈りが続く。そして、もう何も語るまい、もう止めた!そう思っても、炎のように激しく燃え上がる内なる叫び。そんな整理のつかない懊悩の吐露。それが、今日の本文の直前7-9節。
そして、後半14-18節は、今日の本文の最後の言葉とは裏腹に、自分の生を呪い、絶望の叫びで結ばれる。
鬼気迫るエレミヤのすごさを感じる下りだ。エレミヤ書を是非手にして欲しい。
ところで、そんなエレミヤの報われることのない預言活動から来る苛立ち、怒り、耳を貸そうとしないばかりか、容赦ないあざけりを浴びせる人々へのたぎるような復讐心にもかかわらず、エレミヤは策を弄することなく、復讐を神に委ねる。
復讐心という言葉は、キリスト信者にはなじまない。しかし、復讐したい、仕返ししたい、ぎゃふんと言わせたいという気持ちは、現実には、大小、誰の中にもあり得る怒りの一種。それでも、既に日本語となって、特にスポーツで多用されるリベンジ(復讐)となると、健康的な響きすらするから面白い。
いずれにしても、エレミヤのリベンジは、スポーツで勝った負けたのレベルではない。遙かに深刻であるにもかかわらず、怒りの矛先を人々に向けながらも復讐は神に。敵をも愛しなさいという新約の教えに至る過渡期の信仰?
何よりも目を引くのは、「主に向かって歌い、主を賛美せよ。」苦悩の中にあって、やっと言えた自分自身へのメッセージ。痛ましい感じもするが、それが言えて預言者。なぜそう言えるのか。なぜなら、「主は貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される」からだ。貧しい人とはエレミヤ自身のことに他ならない。自分の身がどうなろうと、神が賛美されるなら良しとしよう。そんな心意気を持った人のこと。そんな貧しい人を見ると、神はどうしても見捨てるわけにいかない。そこが神の一番の弱いところ。そんな神の弱みを知っている者エレミヤ。不思議な信頼関係で結ばれた不思議な間柄。
実は、そんな間柄に仲間入りしているのが信者。
どんなに心が揺れ、不信の言葉を吐いたとしても、最後は、エレミヤに倣って何とか言いたい。「主に向かって歌い、主を賛美せよ。」それが無理なら、せめて、「ともかく、神様、あなたが称えられますように。」何とか信者の証を、まず自分自身にたてたい。主の預言職を頂いた信者の一人として。
で、あなたと神様との不思議な信頼関係は?