パウロ的開き直りへの招き
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ロマ11:13-15・29-32
では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。
もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。
神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。
あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。
神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。
(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)
自民党をぶっつぶしてでも・・・。どうやら本気らしい。これは大変。センセイ達があわてた。センセイ方にとっては問題児でも、すぐに妥協したくなる性格から見れば、どんな大物をしても翻意させることの出来ない頑固一徹さにはどこか憧れる。お陰で、世間話の好餌(こうじ)を提供してくれて楽しい?
確かに、責任ある立場の人が「前言取り消し」を繰り返すなら、周りからの信頼は望めないが、個人的な人間関係では多いほど救われる「優しい人」の特徴と言える。実際、自分の場合、親から、兄弟から、友人から、そして仲間の司祭達からどれだけ多くの「前言取り消し」を要求し、そして、聞き入れて貰っていることか。良い人間関係というのは、ある意味で、数限りない「前言取り消し」が花開いたものと言えるかも知れない。
ところで、「神の賜物と招きとは取り消されない」とパウロは言う。端的に言えば、一度洗礼の恵みを受けた信者は、たとえ神を忘れ、人に迷惑をかける人生を歩んでいるとしても、神様は、熱心党のように、「洗礼の恵みを粗末にしている、司祭らしくない」と言って非難したりしない。まして、忘れたり無視したりするのでもなく、招き続けてくださるというのだ。つまり、過去にどんなに恥ずかしい過ちを犯したとしても、また、若気の至りで言いたい放題、言葉の暴力で人の気持ちを踏みにじってきたとしても、神様が「前言取り消し」はもちろん、「Go!Go!」と背中を押してくれる感じになる。
迷惑をかけているのではないかと恐れることの多い自分にとっては、「前言取り消し」は大変ありがたいメッセージだ。しかし、「神の賜物と招きとは取り消されない」というパウロの確信は、キリスト教徒の迫害者という忌まわしい彼の過去を思うとき、彼ほどのワルではなかった自分の過去など、周りの人にとっては耐え難いことだったとしても、神様にとってはどれほどの痛みだったことか。
彼のお陰で何名の人が牢につながれ、何名の人が拷問を受けて命を落とし、どれだけ多くの平和な家族が悪夢の憂き目にあったことか。そんな人々の叫びが、パウロの記憶から消えたことはあるまい。そして、そのたびに罪の深さに我が身をかきむしりながら慟哭したに違いない。しかし、そんな悲劇の張本人としての消しがたい過去にもかかわらず、「神の賜物と招きとは取り消されない」という結論を得たことこそ彼の深い霊性の証。
これこそ、信者が目指さなければならない境地。その時、どの信者の顔も明るく輝き、周りの人に希望をもたらす本物の証が実現する。難しそう?!
もっと具体的に話さなければならない。
「自分はダメな人間。いい加減な信者」などと自分にムチをふるおうとすると、神様が顔を曇らせながら駆け寄り、やさしくそのムチを取り上げ、「自分をそんな風にするもんじゃない。アンタはいい人だ。私はアンタに賭けている」とそんな意味のことを言ってくださるのだ。パウロ流に言えば、そんな自分の弱さやダメさ加減も、「今憐れみを受けるためなのです」ということになる。そんな、神の思いを本気で信じられるかどうかで信仰の質は決まる。
で、このパウロの開き直りの霊性こそ、信者がマスターすべき課題の一つ。
しかし、この開き直り。信者はあまり得意ではない。下手な開き直りはケンカの時の一つの手法に過ぎないので、苦(にが)みは残しても、平和をもたらすことは難しい。「ああ、どうせ私は罪人で、ろくな信者ではありませんヨ!」では実も蓋もない。人は、自分をヘンに卑下したり、逆に強がってばかりいても可愛くない。本物の開き直りは、あなた自身を楽にするので人をも楽にすることが出来る。
神様の手にかかると自分の弱さまでもが輝く。信者の合言葉?