現在の場所: ホーム Binder 日曜日のはなし 2005年 回心は運転から?
ナビゲーション
最近のエントリ
ペトロパウロ休日 2014年06月29日
有難うシスターたち 2014年06月27日
大分教区司祭研修会 2014年06月26日
32年ぶり班制度 2014年06月24日
梅雨の晴れ間に 2014年06月19日
 
編集操作

回心は運転から?

作成者 admin最終変更日時 2006年03月31日 10時49分

年間第23主日のミサ説教音声(2005.9.4)

音声を聞くためにはReal Playerが必要です。無料でダウンロードして使うことが出来ます。

今週の聖書

エゼ33:7-9

 人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。

(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)

今週のポイント 先日十年数年ぶりに速度違反取り締まりに遭遇した。いつもは、全く意識しなかったところだけにショック。「二点減点ですが、3ヵ月間無事故無違反だと消えます。しかし、累積点として残るので、免許証の色が変わります。しかし、5年更新は出来ます。」取り調べの警察官が慰めてくれた。
 
 今日の本文を読んで、何故か、冒頭のエピソードが蘇った。「優良運転」の肩書きをはぎ取られ、「悪徳ドライバー」のレッテルを貼られた感じがしたからかも知れない。

 思い当たることは沢山ある。
 道端に設置されたレーダーに気がついて思わず速度を落として事なきを得たら、「引っかからなかった」自分を誇り、人が「引っかかった」話を聞くと間が悪い人だと同情し、追い越し車線は走る権利があるとばかりに傍若無人に駆け抜け、黄色信号は「滑り込みセーフ!」と言って突破し、前を行く車に、「遅い!」と言って、中央線が白線に変わるやいなやこれ見よがしに追い越そうとする。さらに、線路でも、一旦停止でも見通しの良いところではきちんと止まれない横着な性格。

 本文に曰く、「あなたが悪人に警告」したにもかかわらず、「彼(悪人)がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死」ぬ。 
 聖書で言う死とは、「神から離れた状態」のこと。神から離れた状態とは、「人に喜びや希望を分かち合えない状態。」否定的な言い方をすれば、「人に苦痛と失望をもたらすだけの状態。」

 亜の原意は墓だという。したがって、悪は「心が墓に納められた状態」というのはボクの勝手な理解。自分を悪人と思ったことはないが、少なくとも、運転中の態度はまさに悪人。これまで颯爽?とハンドルを握っていたとき、ボクは死んでいた!これは大変!

 そんな風に読んで気がついたことがある。失った二点を回復するための「三ヶ月は辛抱」の安全運転から、失った心を墓から取り出すための心穏やかな安全運転へ。急がず焦らず競わずのマイペース。み言葉が運転の世界まで入り込んでこようとは夢想だにしなかったので、まさに、たかが運転、されど運転。自分の未開発な部分に開発の手が・・・。
 運転の霊性とでも呼びますかな。


Powered by Plone CMS, the Open Source Content Management System

このサイトは次の標準に準拠しています: