信者の頑張りどころとは・・・
年間第29主日のミサ説教音声(2005.10.16)
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イザ45:1,-4-6
1主が油を注がれた人キュロスについて 主はこう言われる。 わたしは彼の右の手を固く取り 国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。 扉は彼の前に開かれ どの城門も閉ざされることはない。
4わたしの僕ヤコブのために わたしの選んだイスラエルのために わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたがあなたは知らなかった。
5わたしが主、ほかにはいない。 わたしをおいて神はない。 わたしはあなたに力を与えたが あなたは知らなかった。
6日の昇るところから日の沈むところまで 人々は知るようになる わたしのほかは、むなしいものだ、と。わたしが主、ほかにはいない。
(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)
ベトナム戦争に送られるのではないかと恐れて逃げ込んだ北朝鮮は、自由のない国だった。死んだほうがましだと絶望したほどに辛い日々だった。しかし、対談での彼の口からは、「馬鹿なことをしました」などの自嘲的な言葉は聞かれなかった。むしろ、「これまでの65年はジェンキンスさんにとって何だったと思われますか?」という質問に彼は即答した。「すばらしい子供たちにも恵まれ、外国語も覚えました。」
昼時のテレビでの対談の一場面。
かたや、70年にもわたるバビロン捕囚。イスラエルの人々にとっては、民族存亡の危機だった。そんな彼らに救いの手を伸べたのは、異教の王キュロスだった。いや、そういう言い方は聖書的ではない。キュロス自身は、知らなかったとしても、実は、主ご自身が彼を道具としてお使いになった。今日のイザヤの本文はそのことを言おうとしている。
たとえ無知からであったにしろ、あるいは、強制的に捕囚の身とされたにしろ、自由のない国での生活は想像絶するものがあったと思われる。にもかかわらず、ジェンキンスさんの解放にしろ、イスラエルの民の解放にしろ、救いは身近な人からもたらされた。つまり、一方は神と仰がれる将軍様から、一方は、「私が主、ほかにはいない」と言われるヤーウェの神から。
前者の場合、たとえ日本からの外圧によるものだったとはいえ、絶望から死の衝動に駆り立てられたほどの逆境の中から救いが訪れたとは!
人は、飢えの状態になると、体そのものが何とか生き延びようと活性化するという意味のことを読んだことがある。
そんなことを考え合わせるにつけ、これら二つの出来事は、いかなる逆境の中にも救いのチャンスは隠されていることを教えてくれている、と言えなくもない。もっとも、拉致被害者の家族にとっては、そんなのんきなことは言っておれないとは思うが・・・。それに、ジェンキンスさんの場合もイスラエルの民の場合も、例外的なことかもしれないとは思う。
しかし、「私が主、ほかにはいない」と繰り返す今日の本文の言葉は、「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」(マタイ27,46)と懊悩する十字架上のイエスが聞いたのと同じ言葉ではなかったのか。だから、イエスは、究極の逆境である十字架から飛び降り、逃げ出すことはなかった。
パウロが、「主イエス・キリストに対する希望を持って忍耐している」(今日の第2朗読:1テサロニケ1,3)と称える、迫害の中にあるテサロニケの信徒達への励ましの言葉も、同じことを言おうとしていると思われる。テサロニケの信徒達が、艱難の中で仰ぎ見たキリストこそ、十字架上のイエスだったに違いないからだ。
ジェンキンスさんやイスラエルの民の捕囚の例は、私達には無縁だとしても、イエスの十字架上での頑張り、テサロニケの信徒を励ますパウロの言葉を知る者にとって、やはり、等閑視(とうかんし)できない。キリスト者らしい頑張りりどころというのがあると思うからだ。人は一日23回の逆境に直面するそうだが、大小を問わず、どんな逆風下にも、人を妬まず恨まず、ましてや人のせいにすることもなく、「私が主、ほかにはいない」というお方に誠を尽くすまっすぐな信仰。そして、希望の人であり続ける。
そんな思いを主はあなたに託される。