「神父さま」の対案は?
マタ23:1-12
1それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
2「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。
3だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならな い。言うだけで、実行しないからである。
4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本 貸そうともしない。
5 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長く したりする。
6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、
7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
8 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟 なのだ。
9 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
10 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
11 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
12 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)
今日の本文の後には、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」で始まる七つの不幸と呼ばれるイエスの指導者糾弾が始まる。だから、今日、イエスが勧めておられることは、軽く受け流したりすべき事ではないと思える。なのに、「あ、もしもし、ボク神父さん。お父さんは?」電話でもそう言ったりしてはばからないボクがいる。
神父は英語でファーザー。まさに父。イエスさまがあれほど厳しく使用禁止にしたというのに!しかも、教会で司祭が招かれる場所は上座と決まっている。ことに、宴会では。しかも、特別分厚い座布団まで用意してある。当人もそれほどの抵抗を感じることもなく、平然と分厚いもてなしを受けて喜ぶ。
外国からの便りに、Rev. Fr. koriyama尊敬すべき郡山神父、と書く人がいまだにいたりする。昔、牧師の先生に英語を教わったとき、牧師や神父は自分の名前にもRev.をつけるのが習慣だと聞いたことがある。
まるで、イエスの命令に敵対しているとしか思えない、この悪習がいつから教会の中に取り入れられたのか知らないが、イエスの勧めを平然と無視しているのだから、考えてみると、尊大過ぎる話しではある。イヤ、赦されることではない。しかし、「ホントにそれでいいのか!?」と自問しても、何故か、それほどの深刻さがあるわけでもない。どこかの党の対案提出に倣って、そのものズバリ、「司祭」と呼ぶようにしたらいいのかも知れない。様をつけたくなるとしても、「神父様」よりは、イエスさまにとっても聞きやすいのではないか。それによって、七つの不幸のノロイからも免れることが出来るのではないか。
イエスさま如何でしょうか?
「ウーム!難しいところだね。イヤ、実はアレは少し言いすぎたかも知れない。やれ先生の、やれ父だのと人々が呼びかけているのがワシには耐えられなかったのだ。人々のあの卑屈なこびた作り笑い。そんな民の姿に心痛めることもなく、ましてや、貧しく辛い人生に希望の明りを灯そうともしない。それどころか、辛さに辛さを重ねるだけの神の掟の万番人達。御父のみ心を踏みにじっているとしか思えない。それが悔しかったのだ。
あ、ところで、先ほどの、今時の教会の問題だが、第2バチカン公会議の後、かつての聖職者中心の姿はかなり改められたとは言え、中には、まだまだ、と言わざるを得ないところも確かにある。司祭を、神父様と呼んだりするのは論外だとしても、ま、しかし、2000年前に比べたら、新しい神の民と言うだけあって、ウン、ずいぶん自助努力していると思う。そういう意味で、確かに、耳障りではあるが、ま、黙認しても良いかと。だが、権威主義というか、特権意識というのは、ワシや御父から目をそらす危険性をはらんでいることは十分承知しておいて欲しい。いつか、信徒もシンプサマ達もお互いにサンで呼び合うことに何の抵抗も感じない新しいワシの教会を待っているよ。」
だって。