「私に従いなさい」(マタイ9・9)。この場合、イエスの招きは命令。イエスは、キリスト信者をつくるために来たのではなく、弟子をつくるために来た。教会にはたくさんの信者がいるが弟子は少ない。初代教会において、イエスを受け入れた人は弟子と呼ばれた。
「弟子は少ない。3%か4%に過ぎない。」思わず、我が鹿児島の教会が思い起こされた。本当ならどうしよう。滅んでいくだけ?「だから、家庭での信仰教育が大切」と説かれても、手遅れの感じもするし…。
ともあれ、思わず耳をそばだてたことを次に記したい。マタイへの言葉が示すようにすべての信者はキリストの弟子になるべきだが、弟子になるとはどういうことか。
①師の足跡を歩むこと(ヨハネ14・6)。それは、イエスの人生を知っていることであり、師のようになりたいと憧れることである。②イエスの人格に捕まっていること。「私たちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」(ロマ14・8)。③イエスの思いと心を身に付けようとすること(1コリ2・16)。④生き方や立ち振る舞いがイエスを感じさせること。1番のチャレンジだ。人々に共感し(ルカ9・10−17)、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ8・20)と言われたように質素に生きること。これなら自信がある?
⑤彼に従い、彼のように生きること。彼にに賭けていること。「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラ2,20)。「キリストのものとなった私たちは肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」(ガラ5.24)。ここにきて、弟子になれる可能性がゼロになったようでうな垂れた。
⑥イエスに根ざした生き方が準備されていること。つまり、そんな生き方に馴染んでいる、ということ?⑦より多くの弟子を主のもとに連れてくるために出かけること。
宣教することがどんなことなのか具体的になったのは嬉しいのだが…。さて、あなたは弟子をの資格がありそう?
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